山形歴史紀行戦国武将伝〜最上家〜

「最上義光」…山形城主。謀略を駆使して反抗する一族や国人を滅ぼし、勢力を拡大した。「出羽の驍将」。

山形城の最上義光像

 

最上家

最上義守(1521〜1590)

最上家10代目。右京大夫。中野城(山形市)の中野義清(最上義定の甥)の次男。山形城(山形市)の最上義定の死により、僅か2歳で最上家を継ぐ。伊達稙宗の介入による相続だったため、一族や家臣に反対運動が起こった。このため伊達家の「天文の乱」では稙宗方についた。1560年寒河江城(寒河江市)に拠る大江兼広を攻撃したが、攻めきれずに終わった。嫡男の最上義光と不和で、次男の義時に譲ることを画策していたが、宿老氏家定直が病をおして諫言したため、1574年義光に家督を譲り、隠居。次男義時には実家の中野家を継がせた。だが、すぐに次男中野義時や天童氏、上山氏など反義光派の中心となり、娘婿の伊達輝宗にも最上領への出兵を要請して嫡男義光の打倒を図った。結局、義時や天童氏など反義光勢力は義光に滅ぼされたが、義守自身は70歳でまで生きた。

最上義光(1546〜1614)

最上家11代目。左近衛権少将。母は大崎氏。山形城主最上義守の嫡男として生まれたが、父に愛されず家督も弟の義時に譲ろうとするほどであった。義光自身は剛勇で、16歳のとき高湯(蔵王温泉)で賊に襲撃され、賊の首領を真っ二つに斬捨て、撃退したという。義光は何とかして家督を継ぐため、1570年には山寺こと立石寺(山形市)に祈願文を納めている。その後、宿老氏家定直の諫言で義守は1574年義光に家督を譲った。だが、その直後から義光を打倒するため次男中野義時や天童氏などを引き込み反義光包囲網を形成し、義光を追い詰めた。妹義姫の夫伊達輝宗も義守の要請で最上領に兵を出していた。義光は輝宗と和睦して伊達軍を撤兵させ、また谷地城(河北町)の白鳥十郎長久が間に入り、反義光派との和睦を一時実現した。だが一方、中野城を攻めて弟、義時を自害させた。1577年反義光の中心天童城(舞鶴城)の天童頼貞を攻撃したが、城は落ちなかった。頼貞の跡を継いだ天童頼澄も「(天童)城中よりは山形を直下に見下し、例え数万の軍勢で攻めても落ちるべくもない」などと豪語して臣従を拒否した。天童方の猛将、延沢能登守満延にも手こずり、義光は延沢の息子と自分の娘の縁組を提案し、延沢満延を寝返らせて天童に味方する勢力を切り崩していった。1580年上山城主(上山市)の上山満兼は伊達輝宗に通じて反抗していたが、義光の謀略で家臣里見越後、民部父子に殺された。同年天童頼澄の舅、小国城(最上町)の細川直元を攻略。天童二郎三郎(頼澄の弟)が拠る東根城(東根市)も落城し、1581年家臣里見景佐が城主となった。さらにこの年、仙北の横手城主小野寺景道に属する鮭延城(真室川町)の鮭延(佐々木)典膳秀綱を降伏させた。1582年義光方で清水城(大蔵村)の清水義氏が庄内の武藤義氏に攻められると、武藤義氏打倒を計画。1583年義氏側近の前森蔵人を寝返らせ、義氏を自害に追い込んだ。だが義氏の弟義興が上杉景勝の力を背景に跡を継いだので義光はまず最上川より西の村山地方制圧に乗りだした。1584年谷地の白鳥十郎長久の娘と嫡男義康の縁組をすすめ、さらに自分が病で余命幾許も無いと装い、白鳥を山形城に誘き寄せた。義光は白鳥に後のことを頼むふりをして油断した白鳥を斬り殺した。続いて寒河江城の大江堯元と中野原で戦い、堯元の弟で剛勇の橋間勘十郎頼綱を自陣に誘い込み、鉄砲で射殺。大江堯元は貫見に逃れ自害し、鎌倉以来の名家大江家は滅亡した。また同年孤立無援となった天童頼澄と北目の八幡山(天童市)で戦い勝利。ついに天童城も落城し、天童頼澄は山を越えて千代城(仙台市)の国分氏のもとに逃れ、伊達家臣となった。庄内の武藤義興は上杉家臣本庄繁長の次男義勝を養子にして上杉景勝との連携を強化し、伊達政宗や小野寺義道に最上義光を攻めさせ、義光に対抗しようとした。1586年仙北の小野寺義道が最上に攻め込み、義光の嫡男最上義康らが有屋峠(金山町)で迎え撃った。1587年義光は鮎貝宗信に謀反させて伊達の動きを封じ、武藤氏重臣で東禅寺城(酒田市)の東禅寺筑前守義長を誘い、謀反を起こさせた。東禅寺義長らとともに尾浦城(鶴岡市)を攻めて武藤義興を自害させ、念願の庄内支配を果たした。1588年伊達政宗は大崎義隆に謀反した氏家吉継を応援して大崎を攻め、義光は大崎義隆を後援したため対立が激化し、中山(上山市)で最上・伊達両軍が対峙するが義光の妹で政宗の母、義姫が両軍の間に居座り、最上と伊達を講和させた。一方、庄内では越後に逃れた武藤義勝(義興養子)が本庄繁長(義勝実父、上杉家臣)とともに庄内を攻撃。尾浦城下に迫り、東禅寺義長らは十五里ヶ原の戦いで敗死。庄内は一年で上杉領になってしまう。義光は豊臣秀吉に「惣無事令」に違反していると訴えたが、上杉の勝訴となった。豊臣政権下では関白豊臣秀次と結びつきを強め、娘駒姫を側室に出したが、1595年駒姫は秀次処刑に連座して京都賀茂河原で惨殺された。こうして義光は豊臣から離れ、徳川家康との結びつきを強めた。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、庄内以来の因縁がある西軍の上杉景勝から攻められた。直江兼続率いる上杉軍に長谷堂城(山形市)を包囲され、窮地に陥ったが東軍の勝利で上杉軍は撤退。1601年には逆に上杉領の庄内を攻略した。こうして五十七万石の大大名となったが、義光は最上家安泰のため、徳川家に仕えたことのある次男家親を後継者にしようと画策し、1611年長男義康を高野山に出し、途中庄内で義康を鉄砲で暗殺してしまう。1614年65歳で義光は亡くなるが、一生のほとんどが謀略と暗殺に血塗られ、その悲劇は次の代にも受け継がれた。

最上家親(1582〜1617)

最上家12代目。義光の次男(清水義親を次男とし、家親を三男とする説もある)。13歳で徳川家に奉公したことがあり、関ヶ原の戦いでは秀忠の真田攻めに従う。このため兄義康に代わって跡継ぎとなる。1614年義光が亡くなり、跡を継ぐ。兄弟の清水大蔵大輔義親は清水義氏の跡を継いだが豊臣との結びつきが強く、また最上川舟運の基地清水を支配していた。時あたかも大坂の陣直前で家親は義親に謀反の疑いをかけ、清水城(大蔵村)を攻めて義親を自害させた。大坂の陣では江戸留守居役を努める。だが1617年36歳の若さで急死。叔父の楯岡光直に毒殺されたという説もある。

最上義俊(1606〜1632)

最上家13代目。家親の子。家信とも称す。父の急死で12歳で跡を継ぐが家臣団が争い、収拾できなかった。1622年国を統治できないとして改易され、近江一万石に転封された。

最上義康(1574〜1603)

最上義光の長男。修理大夫。白鳥十郎長久謀殺では白鳥の娘を娶るとして白鳥誘き出しに一役買っている。1586年伊達政宗らに呼応して横手城の小野寺義道が侵攻してきた際は、有屋峠の戦いで小野寺義道と戦った。1595年秀次事件に巻き込まれ、父義光が窮地に立った際は無実証明、存命祈願を寺社に命じたという。1600年直江兼続率いる上杉軍に攻められた際、伊達政宗に援軍を要請に行き、援軍を連れて帰る。さらに撤退する上杉軍追撃を行った。大いに活躍したが、徳川との関係から父義光は弟家親に跡目を譲ろうとし、義康を高野山に追い出し、途中の庄内で鉄砲で義康を襲撃して討ち取った。

清水義親(1582〜1614)

最上義光三男。大蔵大輔。氏満。清水城主(大蔵村)。母は清水義氏の娘。清水義氏に男子が無く、義親が清水家を継いだという。清水は最上川舟運の要衝で仙北や大崎にも通じる重要拠点だった。1600年関ヶ原の戦いでは叔父楯岡光直とともに長谷堂城(山形市)を救援し、直江兼続率いる上杉軍と戦っている。義親は若い頃、豊臣秀頼に仕え、大坂方に通じていたとも一栗兵部とつながっていたともいう。1614年正月父最上義光が亡くなり、6月には一栗兵部が志村光清、下吉忠を斬殺する事件が起き、10月義親も家親から謀反の疑いで攻められ、自害した。嫡子義継も11月11日13歳で自害した。徳川家康が大坂に軍を進め、大坂冬の陣が始まったのは11月15日であった。

山野辺義忠(1588〜1664)

最上義光四男。右衛門大夫。光茂。山野辺城主(山辺町)。1600年直江兼続率いる上杉軍により、山野辺城は落城した。1601年最上義光は四男義忠を山野辺城主とし、山野辺義忠を名乗った。だが1617年兄家親の急死により義俊が12歳で跡を継ぐと、楯岡光直ら最上家臣の多くが山野辺義忠を藩主に擁立せんとして御家騒動が勃発。このため1622年最上家は改易となり、義忠も池田家にお預けの身となる。だが将軍家光により許され、徳川御三家水戸頼房に仕えた。子の義堅は山野辺兵庫を名乗り、水戸光圀に近侍した。

上山義直(?〜1626?)

最上義光五男。兵部大夫。光広。上山城主(上山市)。1616年上山城主となる。1622年最上家改易により黒田家にお預けの身となり四、五年後自害したという。

大山光隆(?〜1623)

最上義光の六男。筑前守。1615年大山城主(鶴岡市)となる。1622年御家騒動により最上家が改易になると酒井家にお預けの身となる。広島で自害したという。

駒姫(1579〜1595)

最上義光の次女。豊臣秀次の側室。お伊万の方。1591年九戸政実討伐の帰途、山形城に立ち寄った豊臣秀次が駒姫の可憐さに心を動かし、最上義光に差出すよう要求した。秀吉の実子鶴松の死去によって秀次は関白となり、駒姫も1595年聚楽第に迎えられ、お伊万の方と称されたが、同年秀次は太閤秀吉によって謀反の罪を着せられ、高野山で切腹させられた。秀次の妻子34名も賀茂河原で斬首され、駒姫もその中に入っていた。16歳または15歳だったという。辞世「罪をきる弥陀の剣もかかる身の なにか五つのさわりあるべき」。父、最上義光も秀次の謀反に加担したとされ、一時幽閉された。この恨みで義光は徳川家康に接近し、関ヶ原では東軍についたという。

義姫(1548〜1623)

最上義光の妹。伊達輝宗の正室で伊達政宗の母。保春院。お東の方。政略結婚により17歳で伊達輝宗と結婚した。輝宗との間に伊達政宗、小次郎、女子一人を産んだ。1574年夫輝宗が弟中野義時について兄最上義光と戦った際、あるいは1588年息子政宗と兄義光が中山(上山市)で激突寸前になった際、伊達・最上両軍の間に乗り込んで戦をとめたという。1585年夫輝宗が二本松城主畠山義継に拉致され、非業の死を遂げると暴走気味のわが子政宗を抑え伊達家安定を図っていたが、1590年小田原参陣直前に政宗が毒を盛られ、これを弟小次郎擁立派によるものとして小次郎を斬殺したため、決定的な不仲となり、義姫は山形城に帰り、南館(山形市)に住んだ。しかし朝鮮出兵に出陣する際には政宗と手紙をやり取りしている。1600年最上家が上杉軍に攻められると政宗は参謀片倉景綱の山形を捨石にする策を容れず援軍を送った。母義姫がいたためであった。1622年最上家が改易されると義姫は息子政宗により仙台に迎えられ、翌年亡くなった。

中野義時(?〜1574)

最上義光の弟(長瀞義保と同一人物説あり)。父最上義守は兄義光と不和で義時に最上家を継がせようとしたが、1574年宿老氏家定直の諫言で義光が家督を継ぎ、義時は中野城(山形市)に入り、中野家を継いだ。しかし父義守とともにすぐ反義光包囲網を形成し、伊達輝宗や天童氏などとともに兄義光と戦った。しかし義光と輝宗は和睦し義時は義光調伏の呪いをかけようとしたという理由で義光に滅ぼされた。

楯岡光直(?〜?)

最上義光の弟。甲斐守。義久。1600年甥の清水義親とともに長谷堂城を救援し、上杉軍と戦った。1618年楯岡城主(村山市)となる。1617年甥の最上家親が急死し、義俊が12歳で跡を継いだが家臣をまとめられず、光直は義光の四男山野辺義忠を後継に推し、最上家中は二分した。松根光広は1622年最上家親の急死は光直による毒殺だと幕府に訴えたが証拠不十分で松根は筑後柳川に流された。しかし最上家も改易の憂き目を見て、光直は酒井家にお預けとなった。

松根光広(?〜1672)

最上義光の甥(義光の弟長瀞義保の子ともされる)。備前守。白岩備前守の養子として白岩城(寒河江市)を居城としたが、1615年松根城(櫛引町)を築城し、城主となり松根氏を称した。白岩は村山側、松根は庄内側における六十里越街道の入口で光広は両要所を支配し、六十里越街道を押えた。最上家の家老を勤めたが、1617年最上家親が急死し、1622年これを楯岡光直による毒殺であると幕府に訴えた。幕府は光直を糾問したが証拠が無く、却って光広が筑後柳川の立花宗茂のもとに配流された。1672年配所にて没した。

氏家定直(?〜?)

最上家宿老。伊予守。最上義守に仕え、1542年天文の乱では義守の名代として戦場に赴いた。1570年義守が家督を次男義時に譲ろうとし、嫡男義光と争ったとき定直は病に臥していたが義守に諫言し、調停に入って家督を義光に相続させた。

氏家守棟(?〜?)

氏家定直の子。尾張守。最上義光に仕えて名代を勤めることが多く、1574年最上義光が家督相続をめぐって父義守、弟義時と争った際、義守の要請で最上領に侵攻した伊達輝宗と和解交渉を行った。1581年鮭延(真室)城の鮭延秀綱を攻略している。1586年庄内の観音寺城(八幡町)を攻略している。1591年雄勝郡、由利郡を平定している。守棟は義光の懐刀で義光の数々の謀略は守棟が献策したものという。

氏家光氏(?〜?)

氏家守棟の養子。守棟の従弟成沢道忠の子。尾張守。守棟の子が十五里ヶ原の戦いで戦死したため、跡を継いだ。最上義光の三女を娶り、重臣として活躍。1600年直江兼続率いる上杉軍に攻められた長谷堂城(山形市)の援軍に出陣した。

清水義氏(?〜1586)

孫三郎。清水城主(大蔵村)。清水氏は最上氏一族で成沢氏から分かれた。最上川舟運の拠点清水を支配し、内陸進出を狙う武藤氏から度々攻められた。義氏の父、孫市郎義高は1565年武藤義増に攻められ、本合海で討死した。義氏は娘を最上義光の妻にして義光の力を後ろ盾にした。1582年武藤義氏に攻撃され、これ以降最上と武藤の対決になっていった。義氏の跡は最上義光の三男清水大蔵大輔義親が継いだ。

楯岡満茂(?〜?)

豊前守。楯岡城主(村山市)。最上氏一族で義光に仕え、活躍した。1586年仙北の横手城主小野寺義道が侵攻した際、有屋峠の戦いで最上義康とともに小野寺義道と戦った。1595年逆に仙北に侵攻し、湯沢城(湯沢市)を落とし城主となった。1603年由利郡天鷺城(亀田町)に移り、1612年本荘城(本荘市)に移り、姓を本荘に改めた。最上家改易により酒井家にお預けとなった。

延沢満延(1544〜1591)

能登守。信景。延沢霧山城主(尾花沢市)。大力剛勇の武将で当初天童氏に与力し、最上義光を大いに苦しめた。だが義光が長女を満延の子光昌に嫁がせると懐柔して、義光に寝返った。相当の強力で、ある時義光が戯れに満延と力比べをしたところ、満延のあまりの強さに義光は桜にしがみついたが、満延は義光を引き離そうとし、桜ごと引き抜いてしまったという。さすがに義光も満延を恐れ亡き者にせんと図ったが果たせなかったという。息子光昌は義光の長女松尾姫を娶り、1600年長谷堂城救援や1614年清水義親攻めに活躍したが、1622年最上家改易によって肥後加藤家にお預けの身となった。

鮭延秀綱(1562〜1646)

佐々木貞綱の子。越前守。佐々木典膳。愛綱。鮭延城主(真室川町)。鮭延氏は近江源氏佐々木氏の一族で小野寺氏に仕えていた。小野寺氏が最上への南下を始めると佐々木氏はその先鋒として最上川河畔の岩鼻城(戸沢村)に進出した。1563年佐々木貞綱は庄内から最上川を攻め上ってきた武藤義増に敗北。鮭延城(真室川町)に逃れ、姓を鮭延と称した。秀綱は武藤義増の人質となっている。1581年最上義光は氏家守棟を派遣して鮭延城を攻略した。秀綱は敗北後、最上義光の家臣となり義光の庄内攻略のため来次氏など庄内の豪族に調略を仕掛けている。1590年検地一揆を抑えるため湯沢城(湯沢市)に在番した。1600年関ヶ原の戦いでは直江兼続が率いる上杉軍が最上方の志村光安が守る長谷堂城(山形市)を包囲した。秀綱も清水義親や楯岡光直らと援軍に駆けつけ、上杉軍大将直江兼続の本陣を脅かす活躍を見せ、兼続に「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と言わしめた。1622年最上家の改易により土井利勝に預けられたが、秀綱は家臣を大切にしたため、家臣が乞食をしても主人を養うと言って離れなかった。利勝はこれに感じて秀綱を召抱えた。1646年土井家の領地古河で死去。

志村光安(?〜1609)

伊豆守。高治。長谷堂城主(山形市)。1600年直江兼続率いる上杉軍によって長谷堂城を包囲されたが、粘り強く籠城を続け、伊達家の援軍も得て、関ヶ原での東軍の勝利により上杉軍を撤退に追い込んだ。翌年庄内の上杉勢を討伐し、志村は東禅寺城主(酒田市)となった。1603年酒田に巨大亀が上陸し、主君最上義光に報告した。これを吉兆として東禅寺城を亀ヶ崎城、大宝寺城(鶴岡市)を鶴ヶ岡城と改めた。1608年羽黒山五重塔の修造を担当。その子孫は最上氏改易後、東根で帰農して横尾姓を名乗り代々郡中総代名主を勤めたという。

志村光清(?〜1614)

志村光安の子。亀ヶ崎城主(酒田市)。1614年鶴岡城内で清水義親と通じていた一栗兵部により斬殺された。

新関久正(1568〜1624)

因幡守。1602年藤島城主(藤島町)となる。1607年赤川右岸に因幡堰を開削し(1689年完成)、庄内平野の水田を潤した。鶴岡城代も勤めていたが、1614年一栗兵部が志村光清、下吉忠を鶴岡城内で斬殺すると、久正は一栗を追討した。1622年最上家改易により庄内を離れ、1624年古河で病死。最上義光は鶴岡城を隠居城とするべく、新関に拡張工事を命じており、次男家親を山形城(山形市)、三男清水義親を清水城(大蔵村)に配置した一族による分割統治を目指していたらしい。

北楯利長(1548〜1625)

大学。1601年狩川城主(立川町)となる。1612年最上義光の許可を得て、立谷沢川から取水する北楯大学堰を建設した。堰の完成により、庄内平野は大いに潤った。1622年最上家改易により、新たに庄内領主となった酒井忠勝が利長を召抱えようとしたが固辞し、1625年没した。その功績を讃えられ、北楯神社に祀られている。

中山朝正(?〜?)

玄蕃。長崎城主(中山町)。中山氏は代々大江(寒河江)氏に属していた。八代城主中山玄蕃頭朝政は渋谷懐良に乗っ取られた長崎城を取り戻した。玄蕃頭朝政は1583年に68歳で亡くなり、子の玄蕃朝正が九代城主となる。1584年大江氏滅亡により最上義光の家臣となる。1586年東禅寺義長らと尾浦城(鶴岡市)の武藤義興を攻め滅ぼし、尾浦城主となった。しかし、翌年には上杉家の本庄繁長が義興の養子義勝を擁して庄内に攻め込み、十五里ヶ原の戦いで大敗を喫した。東禅寺義長兄弟は討死し朝正は山形に逃げ帰った。1600年直江兼続率いる上杉軍が最上義光を攻撃した際、長崎城を守備したが敗れた。

日野定重(?〜?)

将監。新庄沼田城主(新庄市)。1581年沼田城主日野左京亮が最上義光に攻められ降っており、これも日野将監の一族とも考えられる。天正年間、将監は中山氏の臣で左沢城主(大江町)であった。1584年大江氏滅亡により最上義光に降った。1614年延沢光昌とともに清水義親を攻め滅ぼし、清水城(大蔵村)を管理下に置いた。この頃、沼田城主(新庄市)であったらしい。1622年最上家改易により藤堂高虎に召抱えられた。

谷柏直家(1551〜1610)

相模守。谷柏館主(山形市)。1570年伊達晴宗・輝宗父子が対立したとき最上義守の使者として和解工作を行う。1574年最上義光と伊達輝宗の和解対面では義光の名代を勤めた。1600年上杉軍が長谷堂城を攻めた際、近隣の谷柏も攻撃されたが城を守り抜いた。

江口光清(?〜1600)

五兵衛。道連。畑谷城主(山辺町)。畑谷城は対上杉氏の最前線であり、1600年出羽合戦において直江兼続率いる上杉軍二万の猛攻を真っ先に受け、兵五百で守ったが二日で畑谷城は落城し、自刃した。最近になって文禄二年(1592年)から慶長五年(1600年)にかけて詠まれた最上家中の連歌がみつかり、最上義光、最上義康や重臣の本荘(楯岡)満茂、氏家守棟らとともに江口光清も名を連ねている。

草刈志摩守(?〜1600)

1600年上杉軍が最上領内に攻め込んだとき上山城に援軍に赴いた。上山城将里見民部とともに物見山の戦いで上杉軍を迎撃し、敵将本村親盛を討ち取った。しかし、追撃戦で上杉領中山(上山市)まで進撃したところ逆襲を受け、広河原の戦いで上杉鉄砲隊の餌食となり討死した。

坂光秀(?〜1616)

紀伊守。成沢城主(山形市)。1600年の長谷堂城(山形市)攻防で援軍に駆けつけ、上杉軍と戦った。戦後長谷堂城主となり、1603年には里見民部の後の上山城主(上山市)となった。

小国光基(?〜?)

蔵増(倉津)安房守の子。日向守。光忠。安房守は1580年細川直元討伐に功があり、安房守の子、光基が小国城主(最上町)となり、小国氏を称した。1596年小野寺義道が湯沢城(湯沢市)を攻撃したため、その救援に赴いた。1622年最上家改易により、光基は鍋島家にお預けとなった。

里見民部(?〜1614)

里見越後の子。上山城(上山市)の上山満兼に仕えていたが、最上義光の謀略で裏切り、1580年父とともに満兼を暗殺し、上山城主に収まった。上山城は対伊達の前線基地で、伊達軍の小梁川盛宗にも攻められている。関ヶ原の戦いでは上杉軍に内通していたともいうが、最上義光が父の越後を人質に押さえていたため、逆に奮戦して上杉軍本村親盛を討ち取る活躍を見せた。しかし1603年義光の長男最上義康の謀殺に加担し、その罪を問われて上山城を出奔した。加賀前田家に逃れたが引き渡され、途中の庄内丸岡で殺されたという。

里見景佐(?〜?)

東根城(東根市)の坂本頼景に仕えたが、1581年坂本氏に取って代わって自ら東根城主となり、最上義光に臣従した。1622年最上氏改易により、里見氏は阿波に流された。

天童頼澄(?〜?)

天童頼貞の子。頼久。天童城主(天童市)。天童氏は成生荘地頭里見氏の流れで古くから村山盆地に勢力を拡げていた。最上氏の祖斯波兼頼が山形に入り、孫頼直が天童氏に養子に入って最上一族となったが独立性が強かった。下筋八楯の盟主で東根氏、上山氏などは天童氏から分かれている。頼貞は娘を最上義守の嫡男義光に嫁がせ、千代城(仙台市)の国分氏から妻を娶り、最上氏をしのぐ勢力を誇った。頼貞は1574年義守と義光が争った際、義守について出羽統一をめざす義光と対立した。1577年義光に攻められたが、天童城はなかなか落ちなかった。頼貞の子頼澄も義光と対立を続け、天童(舞鶴)城の堅固さを誇って臣従を拒否した。義光は天童氏の配下で剛勇の武将、延沢能登守満延に延沢の子息と義光の娘の縁組を持ち掛けて裏切らせた。こうして義光は八楯を切り崩し、1584年天童頼澄は敗北し、千代城の国分氏のもとに逃れ、伊達家臣となった。頼澄は1585年人取橋の戦いで活躍した。頼澄の跡は留守政景の次男重頼が継いだ。

上山満兼(?〜1580)

上山城主(上山市)。姓は武衛(永)とも。上山氏は天童頼直の子満長に始まり、上山氏または武衛氏を称した。1535年武衛義忠が上山城を高楯から月岡に移している。以後上山城は月岡城とも呼ばれ、武衛義忠、義節、義政の三代が居城したという。上山満兼(武衛義政か?)は最上義光の叔母婿で対伊達の重要拠点上山城主であったが、最上・伊達どちらにつくともはっきりしなかった。また1574年には最上義守を中心とした反義光連合に与したため義光は1580年満兼の家臣里見越後・民部父子を裏切らせ、満兼を暗殺した。

細川直元(?〜?)

摂津守。小国城主(最上町)。天童頼澄の舅。1580年最上義光に攻められ、万騎の原の戦いで敗北し、滅亡した。

庭月広綱(?〜1650)

佐々木理右衛門。庭月城主(鮭川村)。鮭延氏の一族で一千石を領した。1581年、宗家の鮭延秀綱同様、最上義光の攻撃を受けて降った。

鳥海信道(?〜?)

最上郡差首鍋城主(真室川町)。1581年最上義光に攻められた鮭延秀綱を救援したが敗北した。

沓沢玄蕃(?〜?)

差首鍋城主(真室川町)。1581年鮭延秀綱を攻略中の最上義光が庄内との連絡路にあたる差首鍋を攻めた。籠城戦となり、城中の清水も枯れて城の窓から首を差し出すように鍋をつるして眼下の大沢川から水をくみ上げて耐えたことから「差首鍋(さすなべ)」の地名の由来になったという。結局、城は焼打ちに遭って落城したという。

一栗高春(?〜1614)

兵部。旧大崎家臣。玉造郡一栗城主で、1591年葛西・大崎一揆では伊達政宗の鎮圧軍に最後まで抵抗して伊達軍を苦しめた。その後、最上義光に仕え田川郡添川を領した。豊臣秀頼に近い清水義親(最上義光三男)とのつながりがあり、家中の派閥争いが激化する中、1614年鶴岡城内にて志村光清と下吉忠を斬殺した。すぐに新関久正の追討を受け、一栗は三千の大軍を相手に戦い討死したという。

永田勘十郎(?〜?)

酒田の豪商。酒田三十六党の一。先祖若狭は三河出身で敦賀、松前、久保田(秋田)を経て酒田に移り住んだとされ、酒田沿岸の漁業税や移出税を請け負い領主に納めた。秀吉の小田原攻めでは役米徴収を請け負った。1600年出羽合戦では町兵を指揮して奮戦している。その後、志村伊豆守の相談役となり、酒田町並の割り直しに尽力した。

林崎重信(1542〜?)

甚助。民治丸。楯岡(村山市)の生まれで居合術の神明夢想林崎流を興した。塚原卜伝に師事したともされ、上杉家臣松田尾張守の指南役となった。林崎甚助の父、浅野数馬源重治は楯岡氏六代目の楯岡満英に仕えていた。天文十一年(1542年)林崎甚助は浅野数馬の子として誕生し、幼名は民治丸といった。ところが天文十六年(1547年)熊野明神での囲碁の帰途、数馬は坂上主膳の闇討ちに遭い暗殺された。民治丸は父の仇討を志し、天文二十三年(1554年)民治丸十三歳にして仇討のための剣法上達を祈願して修行に励み、二年後に「神妙秘術の純粋抜刀」の典旨を神授されたという。永禄二年(1559年)民治丸は十八歳にして遂に「純粋抜刀」を開眼した。元服して村名を姓として「林崎甚助源重信」と名乗り、仇討の旅に出た。永禄四年(1561年)林崎甚助は京都で仇の坂上主膳を討ち果たし、本懐を遂げた。甚助は帰郷して熊野明神に刀を奉納し、これより純粋抜刀を林崎流と称したという。永禄五年(1562年)残された母も病で亡くなり、林崎甚助は故郷を去り、旅に出て武者修行をしながら、門弟の育成に励み、抜刀を広め、居合道の基礎を確立した。諸国を修行し、70歳ぐらいまで生きたという。