上杉鷹山藩政期の人物
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上杉鷹山(治憲)(1751〜1822) 興譲館を創設した米沢藩主の上杉鷹山公です。日向(宮崎県)高鍋藩の秋月家より、養子として迎えられ、17歳で第十代の米沢藩主となりました。疲弊した藩財政を回復するため、竹俣当綱、莅戸善政らを登用して藩政改革を断行しました。抵抗勢力の家老(須田・芋川・色部・千坂・長尾・清野・平林)らが「七家騒動」を起こし、改革を妨害することもありましたが2名を処刑し、断固たる処置をしました。竹俣の不祥事や飢饉があり、隠居を余儀なくされましたが「伝国の辞」で国家は人民のもので君主が私するものではないという民主的思想を後の藩主に伝えています。隠居後も実質上、政務を行い、藩政改革を進めました。水利事業では黒井忠寄に黒井堰や飯豊山穴堰を建設させ、産業振興を図り米沢織や米沢鯉、深山和紙などの特産物を育成。「養蚕手引」を発行し、養蚕も盛んにしました。藩校「興譲館」は上杉景勝に仕えた名宰相直江兼続が1618年に設立した学問所「禅林文庫」の学問の復興と人材育成を目指して鷹山が設立したもので、折衷学派の儒学者
細井平洲を招請して「学則」が定められました。一生を捧げたこれらの改革の結果、鷹山が亡くなった翌年米沢藩は借金を完済することが出きました。松岬神社には藩政の改革に尽力した上杉鷹山、直江兼続、細井平洲、竹俣当綱、莅戸善政の五名が祀られています。
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細井平洲(1728〜1801) 紀徳民とも称す。現在の愛知県東海市出身。有益な諸説を吸収し、実践を重んじた折衷学派の学者。名古屋・京都・長崎で学び、江戸で家塾「嚶鳴館」を開いた。名声が高く、人吉・紀州など各藩の師として活躍。明和元年、鷹山が14歳の時、鷹山の師となる。三度、米沢に来訪し、その指導に当たった。鷹山が関根普門院まで平洲を出迎え、ねぎらったのは有名で「一字一涙の碑」が残る。鷹山が創設した藩校「興譲館」の名称も細井平洲によるもので、「興譲館」の「学則」も定めた。まさに「興譲館」の生みの親である。のちに故郷である尾張藩の藩校「明倫堂」の督学として迎えられ、身分や男女に関係なく廻村講話を行い、尾張藩民の教育に力を注いだ。平洲の門人としては幕末の勤王思想家、高山彦九郎がおり、『北行日記』によれば、彼ものちに米沢、赤湯、山形などを訪問している。高山は父の仇討ちを志していたが、平洲に「なぜ天下国家のために尽そうとしないのか」と諭されたという。
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森平右衛門利直(1711〜1763) 鷹山の養父、上杉重定に仕えて出世し、小姓頭となった。鷹山以前に米沢藩改革に取組んだ先駆者で、重臣の罷免や竹俣当綱の知行削減など旧勢力と敵対しながらも改革を断行。町人・農民に人別銭を課したり、藩士の副業に税を課したり、豪商・豪農を武士に取り立てたりして、とにかく増収を図った。また商人を財政顧問に招いたりした。身内で赤湯御殿守の佐藤平次兵衛を北条郷代官に取り立て、青苧への課税を図ったため「青苧一揆」も発生した。しかしやり手ではあったが一族の栄達を図り、公金を乱用し、強引な金集めで敵を増やした結果、竹俣当綱らによって城中で殺害された。
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竹俣当綱(1729〜1793) 「菁莪館」で学ぶ。守旧派の上杉家重臣色部・千坂らと組んで藩政を牛耳る森平右衛門を殺害し、一時は藩主重定に切腹を申し付けられる。だが逆に藩の実情を顧みず舞や赤湯への湯治で遊び呆ける重定に幕府への領地返上を申しださせ、重定を隠居に追い込み鷹山を新藩主にすえた。守旧派からは警戒され「七家騒動」では藩の重臣達に名指しで批判され、排除を求められたが、逆に重臣達の処分に成功。鷹山のブレーンとして活躍し、藩政改革の中心人物として漆・桑・楮の植林計画や青苧を原料とした藩営の縮織など産業振興を図り、江戸の三谷家、酒田の本間家、越後の渡辺家など豪商との協力関係を構築したりしたが、財政がなかなか好転しないことに加え、竹俣本人が権威を振りかざしたり、不謹慎な振る舞いが見られ、ついに鷹山により隠居押し込めとなった。藩政改革に尽した忠臣とも、そのために己の権力集中を図った野心家ともとれる。
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莅戸善政(1735〜1803) 「菁莪館」で学ぶ。竹俣らと鷹山の藩政改革で活躍した。竹俣の失脚に伴って、莅戸も隠居の憂き目を見る。だが寛政3年復帰し、再び改革に取り組む。莅戸は青苧・漆に代わる産業を奨励し、米沢織・笹野一刀彫・深山和紙・黒鴨硯・成島焼などを生み出すことになった。また豪商との良好な関係も再構築した。また飢民救済の手引のため『かてもの』を刊行し、領民に配った。次第に藩財政は好転したものの、莅戸の生前中は目標を達成できず、借金完済までは33年かかった。上杉鷹山が亡くなった翌文政6年のことであった。
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藁科松柏(1737〜1769) 米沢藩の藩医。家塾「菁莪館」を開き、竹俣・莅戸・木村など藩の憂国の士を集めた。この「菁莪館」グループが森平右衛門誅殺と藩政改革の中核となる。元服前の治憲(鷹山)に期待し、細井平洲を鷹山の師に推薦している。しかし明和6年、33歳の若さで亡くなった。
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黒井半四郎忠寄(1747〜1799) 鷹山の藩政改革を実際に指揮した人物。和算を得意とし、勘定頭を務め、金蔵を管理した。水利事業に取り組み、北条郷(南陽市などの地域)の水不足解消のため「黒井堰」を建設。さらに水量の多い、小国の玉川の水を白川に流して長井・飯豊方面を潤すため、「飯豊山穴堰」を建設。黒井は工事半ばで亡くなるが、19年かけて玉川と白川を結ぶトンネル(穴堰)は完成した。
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神保蘭室(1743〜1826) 本名綱忠。通称容助。儒者。鷹山の学友で細井平洲に学ぶ。興譲館ができると提学となり、後に督学となる。政治にも参与したが、青苧の専売制を主張し、専売制の強行による人心離反をおそれた莅戸父子と対立。結局、鷹山の裁断で専売制は却下され、専売制主張派は処分となり、神保は興譲館の督学専念を命じられた。このため一時出仕を拒否するようになるが鷹山が直書を贈り、慰留に努めたため督学としての職務に戻ったという。「一字一涙の碑」は鷹山が平洲をいたわる様子を伝えた文を読んだ神保が「一字読むごとに一涙がしたたる」と評
したことが由来という。
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幕末・維新期の人物
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神保乙平(?〜1880) 本名忠良。乙平は通称。儒者。神保蘭室の孫として米沢藩に生まれる。江戸在勤中、妻お瀧への恋慕から江戸脱出して米沢に戻り、さらにお瀧を連れて酒田に逃れ、祖父の弟子白崎五右衛門を頼る。酒田の豪商本間家を後ろ盾に助命嘆願を米沢藩に認めさせた。その後、酒田で塾を開き、本間、鐙屋、西野、風間など有力商人の子弟を中心に門人は数百人を数えた。庄内藩の慶応の大獄(公武合体の反主流派処刑)では米沢藩から雲井龍雄が探索のために酒田の乙平宅を訪れている。戊辰戦争が始まると乙平は米沢に戻り、色部長門に随い、新潟駐在の参謀兼諜報担当として活躍している。こうした動きから乙平は米沢藩の隠密であったともいわれる。
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色部長門守久長(1823〜1868) 幕末の米沢藩家老。戊辰戦争で米沢藩は越後方面の警備を担当し、奥羽越列藩同盟軍の総督、色部は新潟港を守備・管理し、前線の指揮にもあたっていた。新政府軍は、外国商人から武器・弾薬を入手できる新潟を押える必要があると判断し、背後の松ヶ崎・太夫浜に上陸、新潟へ進撃した。新政府軍は新潟沖、関屋沖から新潟を砲撃。古町・西堀・東堀は炎上し、色部は被害拡大の前に海岸沿いに撤退を図る。しかし関屋金鉢山に陣取る新政府軍の攻撃を受け、色部は寄居浜から加茂方面の脱出を目指すが現新潟高校前で新政府軍と遭遇・激突、わずかな手勢で交戦し、重傷を負って関屋下川原新田の茄子畑にて自刃する。戊辰戦争に敗れた後、米沢藩では戦争首謀者を差し出せとの命に対し、処刑者を出さぬために、既に死んだ色部を首謀者として届け出た。このため、罪を負って色部家は断絶となった。現在、新潟高校前に「色部長門君追念碑」が残されている。
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甘粕継成(1832〜1869) 幼いころから聡明で「神童」と呼ばれ、興譲館に学び学館典籍となる。藩主に従い京都と江戸を往来。記録頭取にも任ぜられた。史学に優れ「西洋通記」「亜米利加国史」など歴史書の編纂に努めた。戊辰戦争で軍務参謀。長岡城奪還作戦のため、兵員増員を藩に要請している。戦後、謹慎の後に雲井龍雄の助力もあり許された。慶応義塾の教授を通じて福沢諭吉の教えを受けた。息子を慶応義塾に入塾させている。明治二年新政府への出仕が決まったが38歳の若さで亡くなった。ヘンリー・スネル(平松武兵衛)についての記録も残した。
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斎藤篤信(1825〜1891) 米沢藩士。興譲館で勤学兼助読。高畠御役屋将。戊辰戦争の参謀として新潟方面で戦い、米沢藩の降伏後は会津討伐の先鋒となる。のち藩学校総係となり、明治12年に県令三島通庸の要請で、山形県師範学校(山形大学教育学部の母体)の初代校長に任命された。のち文部省の懇請で上京し、帰郷後は戊辰戦争の著述に取り組んだ。
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千坂高雅(1841〜1912) 幕末の米沢藩家老。興譲館に学び、学頭になる。米沢藩軍務総督として戊辰戦争を戦い、戦後は戦争首謀者として名乗り出るが、藩では千坂を救うために、既に死んだ同僚の色部長門を届け出た。戦後の態度と才略が認められ、新政府で内務官僚、石川県令、岡山県令を歴任。貴族院議員に勅撰された。西南戦争では戊辰での怨み重なる薩摩への復讐として、元会津藩の家老山川浩とともに最前線で軍隊を指揮した。
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八木朋直(1842〜1929) 米沢藩士。金子文弥の次男で八木家に入る。幼少から数学の才があり、関流の和算の奥義を極めた。藩の勘定役となり、戊辰戦争では会計方として活躍した。後に新潟県会計課長となり、さらに第四銀行頭取となる。明治32年には第四代新潟市長に就任し、新潟築港期成同盟会長や第四銀行取締役会長なども勤め上げた。また新潟日々新聞の内山新太郎社長と組み私財を投じて「万代橋」を建設した人物である。新潟市護国神社に八木朋直の胸像がある。
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雲井龍雄(1844〜1870) 幕末の志士雲井龍雄は中島惣右衛門の次男で幼名猪吉といった。のち小島才助の養子となり小島辰三郎を名乗る。本名は小島守善。雲井龍雄は彼の最も知られた変名である。幼少から秀才として知られ、興譲館に通って、その書籍を読み尽くしたともいう。当時の興譲館が朱子学一辺倒だったことから反骨精神旺盛な龍雄は講義に出席しなくなり、米沢藩の秀才、甘糟継成の好意で蔵書を借り出して勉強していた。結局、興譲館からは放校処分とされてしまった。高畠御役屋で斎藤篤信の部下として仕事をしながら漢詩を作っていたが、江戸勤務となり安井息軒の塾で頭角をあらわす。その後、藩命で京都にて宮島誠一郎らと同様に工作活動に従事。長州・土佐の志士と深く交流していた。雲井龍雄は大政奉還には賛成で新政府の役人にも抜擢されたが、薩長主導の武力による奥羽諸藩の討伐には反対し、「討薩の檄」を作って薩摩藩の罪を挙げて非難しながら、奥羽越列藩同盟の決起を義挙として協力を求めた。米沢藩は当初、新政府と敵対せずに会津、庄内両藩を擁護しながら戦争回避の道を探っていたが、新政府軍参謀世良修蔵が暗殺されるに及び、新政府との対立が決定的となって奥羽越列藩同盟を結成して戊辰戦争に突入した。また龍雄は新撰組の永倉新八らを米沢に迎えた。戊辰戦争後、新政府の集議院に勤めるが反骨精神旺盛で激しく議論を闘わせる所が嫌われ、戊辰戦争中の「討薩の檄」の態度が問題視され、議員を追われた。その後、逆賊とされ苦しんでいる士族を救うため、明治2年上京して意見書を提出するが明治政府に取り入れられず、明治3年「帰順部曲点検所」を組織して奥羽諸藩士を集め、旧知である長州の広沢真臣らに資金援助を求め、広沢の許可を得て人を集めたが、新政府に不満を持つ士族が集まったため「不満をもつ人々を集めて密議を行った」とされた。龍雄は内乱罪で逮捕されて小塚原で斬首された。享年27歳。墓は南米沢駅近くの常安寺にある。後に長州の広沢真臣が暗殺されたのは広沢が旧知であったにも関わらず龍雄を見殺しにしたので龍雄の仲間、肥後の中村六蔵が広沢を殺したのだともいわれる。
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宮島誠一郎(1838〜1911) 米沢藩右筆の家に生まれ、若くして興譲館助教を勤める。戊辰戦争下では天皇中心の中央政権樹立を訴え、勝海舟、前島密らの協力を得て京都に潜行し、広沢真臣らと和平工作に努めた。明治政府で「立国憲議」を建白して憲法制定による薩長の藩閥政治封じを目指し、内務省設置の建議も行った。勝海舟の中国・朝鮮との同盟構想の影響を受け、征韓論と日清戦争に反対。勝海舟との交流から、米沢海軍への流れを作った人物とされ、山下源太郎ら海軍軍人達の岳父でもある。息子は書道家の宮島大八。大八も勝海舟に師事し、日中善隣を目指した。弟の小森沢長政は海軍大書記官として、山下・黒井らの世話をした。
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中條政恒(1841〜1900) 雲井龍雄の二年先輩にあたる。米沢藩民の窮乏を救うため蝦夷地開拓事業の夢を持っていた。このため江戸で勉強の後、米沢で教師として勤務する藩の制度を嫌い、自由意志で活路を見出せるように具申するが家老によって一蹴される。中條は怒って米沢に帰郷したため藩命に背いたとして幽居の身となる。赦されてから蝦夷地に関する情報収集に努め、国家的な防備・開拓の必要性から蝦夷地開拓事業を藩に建言したが旧態然とした米沢藩によって握りつぶされてしまった。1872年福島県典事となり翌年から大槻原(開成山)開拓をすすめ、さらに安積疏水の建設を計画し、大久保利通に懇願して許され、疎水開削工事が行われた。こうして中條は安積地方(郡山市周辺)の開拓を成し遂げた。また同郷の平田東助や伊藤忠太、池田成彬たち後輩に、新しい時代に即応した生き方について薫陶したという。息子精一郎は建築家、孫の宮本百合子は作家として知られる。
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池田成章(1840〜1912) 米沢藩士香坂昌邦の子。池田峰蔵の養子。のち上杉茂憲の小姓となる。下剤を飲んで用を足し、その後、健胃薬を飲むという侍医が行う悪習を見かね「人体の器官の機能を無視し、かえって害毒だ」と茂憲に苦言を呈している。上杉家の家扶となるが、主の茂憲に「これからは人任せにしないで殿様ご夫妻で家政を切りもっていかなければ、上杉家は長続きしません」と直言した。明治17年、大蔵省に入るが翌々年、官を辞して米沢に戻り実業を始める。
明治19年には興譲館(この時は米沢中学校と称した)の初代校長となる。明治29年には旧主上杉茂憲の米沢移住に尽力。同年両羽銀行(後の山形銀行)設立に尽力。明治40年まで両羽銀行初代頭取として活躍した。
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明治以降の人物
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平田東助(1849〜1925) 父、伊東昇迪は米沢の蘭方医でシーボルトの門弟であった。岩倉使節団に随行してドイツで政治学・法学を学び、帰国後は明治政府で活躍する一方、産業組合制度を推進し、山形県内での信用組合設立にも尽力した。内務大臣も務めた。
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五十嵐力助(1853〜1902) 明治4年、興譲館に諸勤学生として入る。C・H・ダラスやG・E・グレゴリーのもとで英学を学び、明治12年山形県会初代議長に27歳で就任。その後、石川県、福島県、岐阜県と移り、明治23年第一回衆議院選挙に米沢から出馬し、当選。のちに米澤新聞社社長に就任した。
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屋代伝(1857〜1889) 土木技師。兄は米沢市第3代市長大瀧新十郎。明治5年興譲館洋学舎諸勤詰学生となる。工部大学校卒業後、北海道で開拓使に勤め、炭鉱鉄道建設に従事した。神通川の大橋架設、東京−高崎、宇都宮方面、仙台−福島の鉄道建設に当たった。自費で海外出張し、英仏独米の鉄道事情を調査し、帰国。ついに、念願の故郷山形方面への鉄道建設(山形鉄道)に取り組むが、道半ばで無念にも腸チフスで亡くなる。33歳だった。
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山下源太郎(1863〜1931) 明治8年興譲館入学。海軍大将。外国人教師に日本海軍を「貧弱な海軍」と馬鹿にされて、海軍入りを決意したと伝えられる。日清戦争、日露戦争で活躍。参謀としてバルチック艦隊の対馬海峡通過を予測。江田島の海兵学校長となり「器以上に人が大事」と主張して大講堂をつくった。また校長宅を開放して生徒出入り自由とし生徒を薫陶した。
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黒井悌次郎(1866〜1938) 米沢藩士の子。海軍大将。日露戦争で活躍。旅順に山越え砲撃を仕掛けた。
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池田成彬(1867〜1950) 財界人。米沢生まれ。父は興譲館初代校長で両羽銀行初代頭取の池田成章。慶応義塾大学に入学。ハーバード大学に留学した。三井銀行に入社して活躍した。行員の頃、役員中上川彦次郎に「銀行ガ預カル預金ハ、客カラノ借金デアル。借金デアルカラ返済シナケレハ成ラナイノト同ジ事デアル。ソノ為ニハ貸金ガ入ラネバ銀行ハ店ヲ閉ジネバナラナクナル。一ケ所カラノ大口預金ヤ貸金ハ断レ、貸ストキハ人ヲヨク見ルコト」と教えられたという。筆頭常務となり三井銀行を金融界のトップに押し上げた。池田は「預金金利はどこよりも安く、貸出金利はどこよりも高くしろ」と指示した。三井銀行の評判は悪くなったが、昭和2年金融恐慌で人々は経営不安の銀行から、次々に預金を引き出し、一番金利が安い三井銀行に預金を預けることになった。団琢磨暗殺後、池田独裁の時代となる。三井財閥の転向を行って、三井系企業から三井一族を退任させ、株式公開、役員定年制を採用して、自らも定年で辞任した。その後、大蔵大臣結城豊太郎の要望を受けて第14代日本銀行総裁となる。近衛内閣では大蔵大臣と商工大臣を兼任、枢密顧問官も歴任。戦後はA級戦犯容疑者に指定された。三井財閥解体が最後の仕事になった。戦時中は東条内閣打倒の工作を進めていたが、ケンブリッジ留学後、東京海上に勤務していた成彬の息子、豊に召集令状が届き、中国に出征する事になる。そこへ東条から妥協する代わりに、安全な東京勤務に変更してやるとの取引が持ちかけられたが成彬は断った。結局、豊は栄養失調とマラリアで戦地で没した。周りの人々は悲運を嘆いたが、成彬は「最後まで立派に働いたということだけで、英国に修業に出した甲斐があったと私は喜んでいる」と言い終えてから涙をこぼしたという。
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塚田正一(1865〜1930) 米沢藩士の長男で米沢に生まれる。明治18年、生糸検査員として山形に移り、明治31年「山形電気」を創立して、山形県における電気・電力事業の先駆者となる。大正10年、取締役社長に就任。電気事業ばかりでなく山形−蔵王温泉を結ぶ、高湯電鉄の計画にも発起者として大きく関わった。
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長晴登(1866〜1916) 衆議院議員。南陽市赤湯出身。米沢興譲館(米沢中学)を経て慶応義塾大学に進む。師範学校教師免許試験に合格するが教師にならなかった。赤湯に設立した金融会社の監査役に就いたり、平清水陶磁器株式会社を興して平清水焼の普及に努めたり、山形市七日町で山形自由新聞社を設立するなど地元財界で活躍していた。一方で郡会議員、県議会議員を歴任し、明治37年に衆議院議員に当選した。以後、当選四回。米沢藩以来、水資源を守るため保護されていた南陽市水林の国有林払い下げの中止運動を仲介し、払い下げの撤回に成功したという。明治45年(1912年)七月十日、有楽町に設立された日本初のタクシー会社の社長にも就任した。また大正元年には日本橋に日本遊覧自動車株式会社を設立し、東京初の観光自動車業を始めた。だが大正四年の政変では政友会が惨敗して長議員も落選し、翌年急逝した。日本のタクシー、観光自動車業の祖と評される人物である。
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伊東忠太(1867〜1954) 建築家。米沢市生まれ。伊東昇迪の孫。日本の建築学の権威であり、神社仏閣の設計や文化財保存に力を尽くし、中国の雲崗石窟やインド等の仏教遺跡を調査した。平安神宮、伊勢神宮、明治神宮、靖国神社、築地本願寺、上杉神社、亀岡文殊など数々の建築物を設計した。また「有為会」をつくり、郷土の若者の育英にも努めた。
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宮島大八(1867〜1943) 書道家。詠士。宮島誠一郎の子。勝海舟に兄事し、父や勝の薫陶を受け育つ。西欧文化に迎合して、中国や韓国、ロシアを軽視する風潮に憤然とし、東京商業学校(一橋大の前身)を二葉亭四迷らとともに退学。清国に留学し、曽国藩の幕僚だった張廉卿に入門し、書を学ぶ。帰国後は善隣書院を創設し、日華親善に努めたという。のち満州国皇帝溥儀が師として迎えたいと再三頼んだが、固辞して受けなかった。
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宇佐美勝夫(1869〜1942) 明治16年興譲館入学。東京帝国大学卒業後、富山県知事などを経て、内務次官、朝鮮総督府内務部長、東京府知事などを歴任した。のち満州国顧問に就任し、辞職後は貴族院議員に勅選された。日本銀行総裁の宇佐美洵と宮内庁長官の宇佐美毅の父でもある。
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河上清(1873〜1949) 明治20年興譲館入学。慶応義塾に学び、東海散士(会津藩出身柴四朗)の『佳人之奇遇』に出会い、米国への憧れを強くしたという。黒岩涙香に認められ「万朝報」に入社。社会政策学会創設に参加し、社会主義の影響を受け、片山・安部・幸徳らと社会主義協会に参加。社会民主党・社会平民党にも参加。しかし弾圧が厳しくなり、渡米を決意。特派員として取材にあたり、国際問題評論家として活躍。日米関係悪化の中でスパイ事件にも巻き込まれた。昭和24年、ワシントンで客死。
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五十嵐力(1874〜1947) 明治20年興譲館入学。早稲田大学の前身東京専門学校を卒業し、雑誌記者を経て早稲田大学講師となり、文章学・国文学を講義。文章研究の先駆者であった。米沢中学校時代の興譲館校歌を作詞。
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小西重直(1875〜1948) 教育者。米沢藩士出身で米沢市通町に生まれたが、実家が破産して会津に移る。会津藩校日新館を経て、福島尋常中学校(安積高校の前身)、旧制二高、東京帝国大学と進む。広島高等師範教授、旧制七高校長と歴任した。沢柳政太郎の誘いで京都帝国大学文学部教授となる。その後も成城学園顧問、成城学園総長、玉川学園理事、京都帝国大学総長などに就任。しかし「滝川事件」で小西は、文相鳩山一郎からの滝川教授辞職要求を拒否したため、責任を取って総長を辞任することになった。小西は『労作教育』などを著している。
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佐野利器(1879〜1956) 興譲館第6回卒業生。白鷹町荒砥の出身。旧名山口安平。上山市の佐野家の養子となる。東京帝国大学建築工学科を卒業し、工学博士となる。構造力学と鉄骨構造、鉄筋コンクリート構造研究で業績を残し、関東大震災後の帝都復興計画に参加し、帝都復興院建築局長兼東京市建築局長として、区画整理事業や耐火建築助成策などを行い住宅供給方式の先駆となった。その後も東京市政調査会副会長として都市計画と生活文化向上に尽した。晩年は上山に戻り、自ら設計した自宅で余生を過ごした。
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高橋里美(1886〜1964) 興譲館第12回卒業生。哲学者。東京帝国大学卒業後、第六高等学校、新潟高等学校教授を経て東北帝国大学教授となる。ドイツに留学し、その哲学の導入紹介に努めた。のち山形高等学校長、東北大学学長を務める。
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本間久雄(1886〜1981) 興譲館第12回卒業生。文学者。早稲田大学卒業後、島村抱月のもと「早稲田文学」の同人として活躍した。エレン・ケイに共鳴。のち「早稲田文学」主幹となる。イギリス留学後、早稲田大学教授となる。
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片桐英吉(1885〜1972) 興譲館第11回卒業生。海軍中将。第二航空戦隊指令、霞ヶ浦海軍航空隊指令、第一一航空艦隊司令長官など航空畑を多く経験し、海軍航空本部長に就任。このとき、太平洋戦争に突入し、マレー沖海戦で英国東洋艦隊の主力戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」「レパルス」を航空戦力で撃沈する功績を挙げた。昭和18年予備役。
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南雲忠一(1887〜1944) 興譲館第13回卒業生。海軍大将。水雷戦隊上がりで、海軍大学校長となる。太平洋戦争開戦時は第一航空艦隊司令長官で真珠湾攻撃を行い、奇襲に成功。インド洋ではイギリス東方艦隊を撃滅。しかしミッドウェー海戦では判断を誤り主力空母4隻を失う大敗北を喫した。その後もソロモン海戦、南太平洋海戦を指揮して敵空母撃沈の戦果を挙げている。一時、内地に戻ったが、後サイパン島防衛の任に就き、昭和19年7月のサイパン島玉砕で戦死した。水雷の専門家ながら航空艦隊を指揮したことで後年、日本敗退の要因のように批判されるが、ミッドウェー以外では戦果をあげており、一概に畑違いだから駄目だったわけではないと思われる。山形県出身者で形成された艦隊派・主戦論者に属し、軍令部権限拡大に際して軍令部の権限拡大や日独伊三国同盟・対米英開戦に真っ向から反対する井上成美と対立した。
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甘粕正彦(1891〜1945) 米沢藩士の出身。父は宇治山田警察署長甘粕春彦。憲兵大尉となったが、関東大震災直後、無政府主義者大杉栄と伊藤野枝、その6歳の甥を扼殺し、井戸へ投げ捨てた。甘粕は軍法会議で懲役10年の判決を受けたが3年で出獄。のち満州にわたり、満州事変の黒幕の一人として暗躍。満州国民生部警務局長、協和会中央本部総務部長を歴任し、満州映画理事長になる。終戦とともに自決。
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高橋猪一(1892〜1945) 興譲館第19回卒業生。米沢市上郷出身。農本主義教育家で山形県立自治講習所長の加藤完治に師事し、単身赴任で新庄市の昭和開拓を指導した。その高潔な人格から昭和地区の人々に師父と尊敬された。昭和十四年、満蒙開拓青少年義勇軍訓練所長として満州に赴任した。だが日本に戻ることなく満州で病となり死去した。遺骨は昭和の人々によって分骨され、開拓の祖として祀られた。
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北沢敬二郎(1889〜1970) 興譲館第15回卒業生。東京帝大を卒業し、住友総本店に入社した。プリンストン大学に5年間留学の後、住友電線支配人、住友倉庫専務、住友生命専務、住友本社常務理事を歴任。戦後、財閥解体で辞任。公職追放の憂き目にも遭う。関西経済連合会の設立に尽力。昭和25年大丸の社長に就任し、昭和29年には東京駅八重洲店を設立し、売上高日本一のデパートにした。昭和38年会長となる。他に毎日放送・新大阪ホテル取締役、関西学院・大阪女子学園の各理事、大阪日米協会会長もつとめた。
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富樫興一(1890〜1964) 興譲館第17回卒業生。阪神電鉄重役。慶應義塾大学野球部OBで、球団設立にあたって阪神タイガース球団社長となり、戦後まで活躍した。富樫はセ・パ2リーグに分裂の際、伝統のカード巨人−阪神戦を残すため、他球団から非難も受けたが、巨人の市岡忠男と連絡を取ってセ・リーグ所属の道を選んだ。次男の富樫淳も阪神の第二期黄金時代に二番打者として活躍し、平安高校監督として甲子園優勝、神戸製鋼監督として都市対抗優勝を成し遂げた。
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大熊信行(1893〜1977) 興譲館第20回卒業生。大熊家は上杉藩稲富流砲術指南の家柄。東京高商(のちの一橋大学)を卒業し、経済学者となり、小樽高商、高岡高商、神奈川大学、創価大学の教授を歴任した。歌人としても活躍した。
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浜田広介(1893〜1973) 興譲館第22回卒業生。童話作家。日本のアンデルセンとも呼ばれ、その童話は「ひろすけ童話」として親しまれている。代表作は「椋鳥の夢」「龍の目の涙」「泣いた赤鬼」など。郷里の高畠町には浜田広介記念館がある。米沢興譲館高等学校校歌の作詞者でもある。
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我妻栄(1897〜1973) 興譲館第22回卒業生。法律学者。日本の代表的民法学者とされる。終戦後、日本国憲法制定のために貴族院議員に勅選された。家族制度の改革、農地化改革立法、民事関係の立法などに貢献。安保条約における岸首相の国会運営も批判した。郷土振興のため、奨学財団を設立したり、図書を興譲館に寄贈したりした。
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宇佐美洵(1901〜1983) 財界人。米沢生まれ。父は明治16年興譲館入学の元東京府知事の宇佐美勝夫。弟の毅は宮内庁長官。伯父は三井の池田成彬。慶応義塾大学経済学部を卒業し、三菱銀行頭取となる。さらに第21代日本銀行総裁となる。民間出身では6人目。金融界と積極的に意見交換した名総裁とされる。
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木村武雄(1902〜1983) 興譲館第28回卒業生。政治家。元帥と呼ばれ、戦前から戦後の政界で活躍し続けた。米沢生まれで興譲館を卒業後、明治大学に進む。父木村忠三の跡を継いで政治の道に進み、昭和4年米沢市会議員となる。農民運動に取り組み、庄内出身の石原莞爾と交流するようになる。昭和11年には衆議院議員となり、中央政界に進出。中野正剛の東方会に参加した。その後、石原莞爾の思想に共鳴し、昭和14年自ら理事長となって東亜連盟協会を創設した。しかし大政翼賛会、さらに首相東条英機との対立で一時上海に逃れる。帰国して終戦を迎え、昭和20年鳩山一郎を党首に担いで自由党を結党したが、翌年東亜連盟が解散させられ、木村は公職追放となった。昭和27年公職追放が解除となると日本再建のため保守大合同を目指して自由民主党の創設に動く。その後は自民党で活躍し、昭和47年木村が中心となり、田中角栄を擁立して田中角栄内閣を実現させた。木村は建設大臣を務めた。また日中国交回復やインドネシアのアサハンダム建設に尽力したり、立ち遅れていた地元山形のインフラ整備を進めたり、多くの実績を残した。
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石塚庸三(1915〜1982) 興譲館第40回卒業生。パイオニア社長。東京大学法学部政治学科を卒業し、東京芝浦電気へ入社。無線通信工業会では輸出問題で手腕を発揮。ミツミ電機を経てパイオニアに入社。常務取締役、専務、副社長と歴任し、昭和46年社長に就任。技術開発、財務強化、人材充実を図り、中小企業のパイオニアをオーディオのトップメーカーに育て上げた。また「レーザーディスク」の普及を強力に推進した。石塚が「レーザーディスク」の売れ行き不調に悩んだ時、パイオニア創業者の松本望が「新製品を出すのにこんなこと当然だ。」と一喝した。ソニーを抜きパイオニアが日本一の業績を誇ったときも、松本は著名となった石塚に対し「君が社長でなかったら、もっと会社が良くなっていたかも知れぬ。マスコミに出るのは良いが、常に社員の代表であることを忘れるな。」と一喝している。一介のラジオ商からのし上がってきた松本と秀才肌の石塚の違いがあらわれている。
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鈴木実(1930〜2002) 興譲館第57回卒業生。興譲館を卒業後、桜井祐一氏の下で彫刻を学び、日本院展で白寿賞などを受賞した。国画会会員となり「顔を替える人」「家族の肖像」「存在する私」など、独特な作風の木彫を発表した。妻の鈴木芳子も日本画家として活躍した。
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皆川睦雄(1935〜) 興譲館第64回卒業生(この時期、米沢西高と称した)。野球評論家。現役時代は南海の投手として活躍。通算221勝を挙げた。
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ますむらひろし(1952〜) 興譲館第81回卒業生。漫画家。猫のキャラクターでファンタジーの世界を描く。「銀河鉄道の夜」「アタゴオル」シリーズなどの代表作がある。
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※山形県知事の管理下に移管した明治26年卒業を第1回卒業とする。 |
参考文献:『先人の邂逅』(興譲館出版会、松野良寅著)『山形県大百科事典』(山形放送(株)編)『別冊歴史読本日本海軍総覧』(新人物往来社)『随想 興譲館今昔夜話』(松野良寅著)『興譲館会員名簿』(米沢興譲館同窓会)『上杉鷹山公とその時代』(米沢市立上杉博物館)『小説上杉鷹山』(学陽書房、童門冬二著)『上杉鷹山危機突破の行動哲学』(二見書房、加来耕三著)ほか...各種サイトも多数参考 |