山形歴史紀行戦国武将伝〜伊達家〜

「伊達政宗」…米沢城主。その武略で南奥羽に覇を唱え、秀吉・家康とも渡り合い、天下を狙った。「独眼龍」。

仙台城の伊達政宗像

 

伊達時代(〜1591)

伊達稙宗(1488〜1565)[号:直山]

伊達家14代目。伊達尚宗の次男。左京大夫。奥州探題の大崎氏を超える力を誇り、前例の無い陸奥守護職を得た。伊達氏は本来、福島県伊達郡の領主であるが、8代宗遠、9代政宗父子の時、長井氏を滅ぼして山形県置賜郡を制圧し、伊達郡の桑折赤館城と置賜郡の高畠城を半々居城とした。この頃既に伊達氏の武威は奥州随一とされている。1514年に長谷堂(山形市)で最上義定を破り、妹を義定の妻に送り込み、最上氏を事実上伊達の傀儡政権にした。最上一族の反発が続く中、義定の没後は最上一族の中野氏から2歳の幼児、最上義守を迎えて当主の座に据えた。1536年大崎氏に内紛があった際は内紛を解決できない当主大崎義直の要請で古川城(古川市)の古川刑部大輔持煕や岩出山城(岩出山町)の新井田頼遠を滅ぼして大崎氏に介入し、次男(大崎義宣)を大崎氏の養子に送り込む。このように稙宗は数多くの子どもや一族を近隣諸将との政略結婚・養嗣子に利用し、大いに勢力を拡大している。また内政面では半田銀山に近い伊達郡の西山城(桑折町)を本拠とし、戦国最大の分国法『塵芥集』を制定した。だが皮肉にも彼の外交の特徴、養嗣子政策が引き金となり、天文の乱(洞の乱)(1542〜1548)が起こる。三男の伊達実元を精兵百騎をつけて越後守護上杉定実(?〜1550)の養子に送り込もうとした際、嫡男の晴宗が中野宗時ら家臣に担がれて「有能な家臣を他国にやり、国の中が空虚になっている」として父に謀反し、実元の越後行きを武力で阻止し、稙宗を西山城に幽閉したのである。事件の背景には『塵芥集』と前後して制定された『棟役日記』『段銭古帳』の田畑に課する特別税をめぐる稙宗と家臣団の対立があったという。稙宗は間もなく小梁川宗朝の手により西山城を脱出。稙宗方には養子に出した大崎義宣、葛西晴胤、伊達実元ら息子のほか、会津地方の有力大名芦名盛氏(1521〜1580)をはじめとする相馬顕胤、田村隆顕、二階堂輝行など稙宗の娘婿にあたる近隣の諸豪族、稙宗が擁立した山形の最上義守がついた。一方晴宗方は晴宗の妻久保姫の実父岩城重隆、大崎氏本来の主大崎義直、稙宗の弟の留守景宗、そのほか中野宗時をはじめとする桑折氏、白石氏、小梁川氏などの伊達家家臣がついた。当初、稙宗方が優勢で西山城を奪回し、晴宗は白石城に逃れたが芦名盛氏が晴宗方に寝返ったことで戦況は逆転。長井(置賜地方)を晴宗に押えられ、最上義守らも晴宗方に寝返る。事此処に至り田村隆顕が父子の和解を策し、1548年13代将軍足利義輝が停戦を命じ、稙宗は家督を晴宗に譲り、丸森城(丸森町)に隠居することになった。だが、この天文の乱は伊達氏と相馬氏との関係を悪化させ、その後も続く伊達氏と相馬氏の戦いの原因となった。また、稙宗は置賜と越後を結ぶ交通路整備に取組み、1521年大里峠を開削し、現在の山形県小国町と新潟県関川村を結んでいる。

伊達晴宗(1519〜1577)[号:保山]

伊達家15代目。伊達稙宗の嫡男。左京大夫。伊達氏の実力を背景に代々大崎氏が継承してきた奥州探題職を得た。天文の乱で父、稙宗と争い、家督相続後は本拠地を米沢城(米沢市)に移す(1548年)。有力家臣と妥協し、父の稙宗の政治路線を改め、知行判物を再交付した。伊具郡をめぐって相馬盛胤(顕胤の子)と抗争を続けた。一方で宿老中野宗時を重用し、宗時の専横を許した。次男の輝宗とも対立したが、1565年に輝宗に家督を譲り、杉ノ目城
(福島市)に移って隠居した。晴宗も父同様に多くの子ども達を政略結婚や養嗣子に利用し、勢力拡大を図った。晴宗の妻久保姫は岩城重隆の娘で、白河結城氏に嫁ぐところを晴宗が拉致して妻にしたという。晴宗との間に十一人の子女をもうけたという。

伊達輝宗(1544〜1585)[号:性山]

伊達家16代目。伊達晴宗の次男。左京大夫。父との対立を経て、1565年家督を継ぐ。相馬盛胤・義胤父子と抗争を続けた。父の寵臣で権勢を振るう中野宗時と対立。1570年中野宗時が小松城(川西町)で謀反し、これを討伐するが中野一族が相馬に逃れたため相馬氏との仲はさらに悪化した。中野に代えて、信用のおける遠藤基信を引き立て宿老として重用し、進物を贈り織田信長への接近も図った。妻、義姫(保春院)の実家最上氏の内紛では、義父の最上義守の要請を受けて1570年上山へ、1574年に最上領内に出兵。義兄、最上義光と戦う。だが相馬氏との抗争が激化していたため義光とは和睦し、撤兵した。対相馬戦では精強な相馬軍との正面衝突を避け、相馬軍が出陣して手薄になったところを衝き、勝利を重ね、1584年伊具郡を奪還し、相馬との講和に持ち込んだ。同年、嫡男の政宗に家督を譲り、隠居として政宗を後見する。1585年政宗の圧力に追い詰められた二本松城主畠山義継が御礼言上に訪れ、応対した際に畠山により拉致されてしまう。連れ去られる途中、阿武隈川河畔の高田原にて畠山義継共々、駆けつけた政宗の命を受けた伊達家鉄砲隊によって射殺された。享年42歳。資福寺(高畠町)に墓所がある。輝宗は名僧虎哉宗乙を資福寺の住持に招き、我が子政宗の教育を託していた。また片倉小十郎景綱の才を見抜き、小姓に取立て、我が子政宗の近侍に抜擢した。

伊達政宗(1567〜1636)[号:貞山]

伊達家17代目。伊達輝宗の嫡男。権中納言。幼少の頃、疱瘡を患い隻眼になったことから「独眼龍」と呼ばれる。幼名は梵天丸。名僧虎哉宗乙に教育され、片倉小十郎景綱らの補佐を受けた。1577年元服し、置賜を制圧して鎌倉公方の軍勢と互角に渡り合った伊達家中興の祖、9代伊達政宗にあやかって伊達藤次郎政宗と称す。三春城主田村清顕の娘、愛姫(陽徳院)を妻に娶る。1581年には対相馬戦で初陣を飾る。1584年には早々と父、輝宗から家督を譲られ、翌年、仙道攻略に乗り出す。伊達と芦名の間で去就の定まらない大内定綱を攻撃し、小手森城では撫斬りを強行。女子どもから家畜まで皆殺しにしたため、周辺では政宗を恐れた。大内は会津の芦名氏のもとに逃亡し、続いて二本松城の畠山義継が狙われた。畠山は御礼言上を装い、隠居の伊達輝宗を拉致したが、駆けつけた政宗は阿武隈川河畔の高田原で父の輝宗もろとも畠山義継を鉄砲隊で銃撃、射殺。父の仇として畠山の遺体をずたずたに切り刻み、遺体を藤蔓で縫い合わせて磔にし、晒し者にしたという。続いて二本松城を攻めるが堅固な上に大雪のため攻略に失敗。この状況を見て、北関東から奥州の南部に勢力を拡大した常陸太田城主「鬼義重」こと佐竹義重(1547〜1612)を中心に芦名氏、岩城氏、石川氏、結城氏、二階堂氏、相馬氏が連合し、三万の軍勢で政宗に攻めかかった。政宗は八千の兵を率い、人取橋の戦いで三万の連合軍と激突。鬼庭左月良直などの将が戦死するが寡兵でよく防ぐ。連合軍は佐竹義政(義重叔父)が暗殺され、安房の里見氏と水戸の江戸重通が背後から攻めかかったため撤退を余儀なくされた。翌1586年二本松城は開城し、伊達領となった。1587年伯父の山形城主最上義光が庄内を攻略し、さらに置賜に触手を伸ばして鮎貝城(白鷹町)の鮎貝宗信を政宗から離反させた。このため政宗は鮎貝氏を滅ぼし、伯父義光との対立が鮮明となる。1588年には政宗は叔父の留守政景に命じて中新田城(中新田町)の大崎義隆を攻めたが敗退。逆に最上義光の計略で最上、大崎、芦名、佐竹の有力大名による政宗包囲網が結成され窮地に追い込まれる。遂に伊達政宗と最上義光が中山口(上山市)で直接対決に至るが、政宗の母で義光の妹でもある義姫(保春院、お東の方)が籠で両軍対峙する中に乗り込み、説得の末に両軍を引き上げさせた。その頃、南では芦名氏が佐竹義重の次男義広を当主に迎え、再び佐竹・芦名連合軍が結成され、郡山城(郡山市)を襲った。しかし石川昭光(伊達輝宗の弟)らの調停で両軍は兵を退く。一方、庄内で最上義光は上杉景勝配下の本庄繁長軍に敗北し、勢力を後退させ、1589年政宗も大崎義隆を事実上降伏させて包囲網は崩れた。政宗は安子島城と高玉城を攻略し、会津芦名氏攻略の足掛かりをつくると反転して相馬領を攻め、妻の実家田村氏を攻める相馬氏、岩城氏をけん制する。さらに芦名氏一族で猪苗代城主の猪苗代盛国を寝返らせ、米沢城からは別働隊に桧原峠を越えさせ北から会津を攻め、政宗本人は猪苗代城に入った。須賀川まで出陣していた芦名義広は急遽黒川城(会津若松市)に戻り、磐梯山麓の摺上原で伊達軍と激突した。他家からの養子でまとまりの無い芦名軍は重臣が戦闘に参加せず敗北。芦名義広は黒川城を脱出し、実家の佐竹氏のもとに逃れた。会津の芦名氏を滅ぼすと立て続けに須賀川城の二階堂氏を滅ぼし、白河結城氏や石川氏、岩城氏も帰服させた。事実上政宗に降っている大崎氏や葛西氏の領土を合わせると宮城県全域、福島県ほぼ全域(相馬除く)、山形県南部、岩手県南部の南奥羽のほとんどを統一した。しかし既に豊臣秀吉が天下をほぼ手中に納めており、豊臣秀吉の惣無事令に違反して芦名氏を滅ぼしたことで伊達家は存亡の危機にあった。ここで政宗は毒を盛られ、これを政宗に代わって弟小次郎を当主に据えようと目論む者の仕業として弟小次郎を殺害。母、義姫は実家の最上義光のもとに去った。家中の不穏な勢力を抑えた政宗は漸く1590年小田原の北条氏政を攻めている秀吉の下に帰参した。この時、白装束で秀吉に面会し、遅参を詫びたところ秀吉から「もう少し来るのが遅ければこの首が危なかった」と首筋をたたかれたエピソードがある。政宗は会津と仙道南部を没収されたが、置賜郡及び伊達郡など仙道北部諸郡、宮城郡など宮城県南部の諸郡は安堵された。だが奥州仕置に際し、葛西・大崎一揆が勃発。政宗は鎮圧に活躍したが、1591年置賜郡及び仙道北部は没収され、葛西・大崎領を与えられた。裏で一揆を扇動したのが当の政宗だったからという。この時は公の花押の鶺鴒の目に針穴を開けておくことで、一揆扇動の密書は穴の無い偽物と申し開きして難を逃れた。こうして岩出山城(岩出山町)に居城を移す。秀吉政権下の政宗は「醍醐の花見」の出席武将(他は秀吉とその養子、徳川家康、前田利家のみ)に名を連ねていることから、破格の待遇を受けていたらしい。だが豊臣秀次が不行跡と謀反の疑いで切腹させられその一族も処刑されると、政宗にも謀反加担の疑いがかかり、石田三成らが詰問に訪れた際「秀吉公が秀次に関白を譲ったほどなのに片目の自分が人を見誤るのは当たり前、秀吉公が秀次に譲るというので秀次に奉公したまででそれを罪というなら自分の首を刎ねろ」と秀吉の痛いところを衝いて処刑を免れた。また秀吉には碁の勝負で勝ち側室「香の前」を譲り受けたという。秀吉が亡くなると徳川家康に接近し、長女五郎八姫と家康の六男松平忠輝を婚約させた。関ヶ原の戦いでは東軍につき、上杉軍の甘粕景継が守る白石城を攻略し、本庄繁長が守る福島城にも攻めかかった。また上杉軍の直江兼続に攻められる山形城の最上義光に援軍を出したが、このとき片倉小十郎景綱が上杉軍と最上軍が争わせ疲弊したところを攻めよと献策したが、政宗は母(義姫)が山形に居るとしてこの策を拒否した。後に最上家が改易されたとき、政宗は母を自領の仙台に迎えている。政宗は家康から旧領の置賜郡及び伊達郡など仙道北部を与える約束をもらっていたが、南部氏の領地で和賀忠親に一揆を扇動させたため不興を買い約束を反故にされた。のちに3代将軍徳川家光の時代にこの約束を蒸し返したが、井伊直孝により、そのお墨付は「今の世にこれを出せば、かえって伊達家62万石をつぶすもと」として焼かれてしまった。一方、政宗は海外にも目をやり、キリスト教と接触した。1613年家臣支倉常長を月の浦からヨーロッパへ出航させた。しかし支倉常長が1620年に戻った頃にはキリスト教は弾圧の対象になっており、政宗もキリスト教弾圧に転じていた。1615年の大坂夏の陣では政宗は騎馬鉄砲隊を率い、大阪方の後藤又兵衛基次を討ち取る活躍を見せた。これと前後し1614年長男秀宗が伊予宇和島藩主に取立てられ、家督は次男の忠宗に譲ることになった。背景には秀宗が豊臣秀頼に近侍したことへの憚りがあったらしい。さらに1616年家康が没すると娘婿の松平上総介忠輝が改易される。大坂の陣で遅参したこと、キリスト教や外国貿易との関係が理由とされるが、政宗と通じて謀反を図ったという説も流れていた。当時、幕閣では本多正信・正純父子と大久保一族が対立しており、1613年には松平忠輝の内政に関与していた幕府の金山奉行大久保長安が亡くなった後、不正が発覚して長安の子が死罪、一族の大久保忠隣も改易となっていた。これを背景に政宗・忠輝・長安が陰謀をめぐらしたとされた。だが政宗は忠宗に秀忠の養女を娶らせ、家康からは秀忠を盛りたてるよう頼まれ、秀忠が亡くなる際には家光のことを頼まれている。実際に謀反を起こすことも無く徳川政権下の重鎮として活躍している。政宗は新領地で北上川など河川改修や治水に努め、新田開発も進めていたが、その結果、表高62万石に対して実高200万石とも言われるほど成長した。さらに貞山堀をつくり、石巻港整備を進め、水運も栄えた。こうして仙台藩の米は「仙台米」として江戸に運ばれ、江戸の米の三分の二を占めるまでに至った。1603年には仙台城(青葉城)に移り、東北の中心都市仙台の原型を創りあげた。1636年70歳で死去。

愛姫(1568〜1653)

田村清顕の娘。母は相馬氏。陽徳院。愛姫は「めごひめ」と読む。1579年伊達政宗に嫁ぐ。しかし敵対する相馬氏の影響を嫌う夫政宗によりお付きの侍女が斬られ、夫婦仲は危機に陥ったという。1590年秀吉の人質として京都に住まう。1594年五郎八姫(いろはひめ)を産み、1599年忠宗(第二代仙台藩主)を産む。政宗が亡くなる時、看病したいと強く願ったが許されなかった。このため自分が亡くなるときは夫政宗の命日まで頑張り、夫の命日に死去したという。また政宗は隻眼にコンプレックスを持ち、全ての肖像に両目を入れさせたが、愛姫は夫の正しい姿を残しなさいと言い、政宗の片目の木像を造らせたという。眉目秀麗であったという。

久保姫(1522〜1594)

岩城重隆の娘。栽松院。幼少から色白で美しくえくぼがあったので「笑窪御前」と呼ばれたという。白河結城家に嫁入りが決まっていたが、嫁入りの途中に伊達晴宗が久保姫一行を略奪して自分の妻にしてしまったという。晴宗との間に岩城親隆、伊達輝宗、留守政景、石川昭光、国分盛重、杉目直宗、二階堂盛義室、伊達実元室、芦名盛隆室、小梁川盛宗室、佐竹義重室と六男五女をもうけ、奥羽諸大名にその血を伝えた。晩年は孫の伊達政宗の庇護下にあり宮城郡根白石で没した。

伊達小次郎(1568?〜1590)

伊達輝宗次男。幼名竺丸。政道と名乗ったらしい。政宗に比べ、母に愛されたという。芦名氏の養子候補となったが芦名氏は佐竹氏から義広を養子として迎えたため、伊達と芦名の仲は険悪になった。1590年政宗が毒を盛られた際、政宗によって斬られた。家中の小次郎擁立派が小田原参陣をめぐって窮地に陥った政宗に代えて小次郎を当主にせんと企んだからという。この一件で母義姫(保春院)は実家最上家に戻り、養育役の小原定綱は殉死した。

伊達実元(1527〜1587)

伊達稙宗の三男。兵部大輔。藤五郎。信夫郡大森城主(福島市)。越後守護上杉定実の養子になることが決まっていたが、兄晴宗は武力で入嗣を妨害し、父稙宗は西山城(桑折町)に幽閉され「天文の乱」が起こった。実元は父稙宗方の武将として信夫周辺で兄晴宗の軍と戦った。父が隠居し、乱が終結した後は兄晴宗に仕えた。1570年中野宗時が輝宗に謀反し、追討を受け、相馬に逃れたが、実元を通じて帰参を願った。しかし、輝宗は許さなかった。また畠山氏が八丁目城(福島市)を奪ったが、1574年畠山義継を攻め、奪回した。1576年対相馬戦の起請文に名を連ねる。1585年息子成実に家督を譲り、隠居して八丁目城に入る。同年、畠山義継の和睦願いを取次いだが、これが輝宗の非業の死につながる。1586年相馬義胤からの伊達・畠山の和睦要請を取次ぎ、二本松城を開城に導いた。この結果、二本松城(二本松市)は息子伊達成実が城主を勤めることになった。伊達家の紋「竹に雀」は実元入嗣の際に引出物として上杉家から贈られたという。

伊達成実(1568〜1646)

伊達実元の子。安房守。兵部。藤五郎。母は伊達晴宗の娘であり、伊達輝宗の従兄弟にして甥。伊達政宗より一つ年下で、幼い頃から側に仕えていたともいう。1585年家督を相続し、大森城主(福島市)。同年、伊達輝宗が畠山義継に拉致される事件が起こり、輝宗は義継もろとも伊達軍に銃撃され、非業の死を遂げたとされるが、一説では政宗は不在で銃撃を命じたのは成実だったともいう。続く人取橋の戦いでは佐竹を中心とする連合軍相手に勇戦し翌年二本松城(二本松市)が開城すると二本松城主となる。1588年郡山の戦いでも活躍。1589年摺上原の戦いでは第三陣を勤め、芦名軍に斬り込む活躍を見せた。1590年葛西・大崎一揆鎮圧の際は蒲生氏郷の疑念を解くため人質として名生城(古川市)に赴いた。1591年政宗の岩出山移封により角田城主(角田市)となる。ところが朝鮮出兵から一時帰国して、伏見にいた成実は1593年高野山に密かに脱出してしまう。自分の戦功が認められず他の将より位が下であったのが理由とされる。留守政景が説得したが聞き入れず、政宗の命により屋代景頼が角田城を攻撃し、成実の妻子や家臣は討取られた。しばらく浪人の身で、1600年関ヶ原の戦いを控え、上杉景勝が五万石で迎えようとしたが断った。同年7月関ヶ原の戦いの直前、片倉景綱、留守政景、石川昭光の説得により伊達家に帰参した。1602年亘理城主(亘理町)となる。1615年大坂の陣にも出陣した。1638年江戸で将軍家光に拝謁し、奥州の軍議を談じて家光は成実の勇略に嘆称したという。成実は『成実記』(『政宗記』『伊達日記』)を著し、政宗の一代記を後世に伝えている。成実は「英毅大略あり武勇無双」と評された武勇の士であり、片倉景綱、茂庭綱元とともに「伊達の三傑」と称せられた。またその兜には「決して後戻りしない」とあらわすため毛虫の前立がついていた。

亘理元宗(1530〜1594)

伊達稙宗の十二男。兵庫頭。元安斎。亘理城主(亘理町)。亘理氏に養子に行った兄綱宗が死去し、元宗が亘理氏に養子に入った。相馬氏の領地に接することから、常に対相馬戦で活躍した。1570年中野宗時らが謀反し、追討を受け、高畠・白石を突破して相馬に逃げようとするところを刈田郡宮(白石市)で迎撃している。このため置賜・伊具・名取の三郡で所領を加増された。1574年最上義光との戦いに出陣。和睦の使いを勤めた。1578年対相馬戦を一任され、相馬盛胤と伊具郡で戦う。1583年子の重宗も加わり、策をめぐらして金山城、丸森城(丸森町)を相馬から奪回した。1585年人取橋の戦いで活躍。1588年郡山の戦いにも参加した。1590年葛西・大崎一揆では佐沼城の戦いで政宗に代わって戦を指揮し、負傷している。翌年、伊達家移封に伴い、涌谷城(涌谷町)に移った。

留守政景(1549〜1607)

伊達晴宗の三男。上野介。留守氏の養子となる。留守氏は陸奥国留守職の家柄で高森(岩切)城(仙台市)を居城とし、伊達持宗五男の郡宗、伊達尚宗次男の景宗など伊達家から度々養子を迎え、伊達家の傀儡であった。政景はは留守家に本来の跡継がいるところ、伊達の力で安泰を図ろうとする勢力により1567年養子に迎えられた。1568年黒川晴氏の娘を妻に迎える。1569年政景の入嗣に反対する村岡氏を滅ぼした。その後利府城(利府町)に移った。1574年兄輝宗に従い最上義光を攻め、1577年対相馬戦のために小斎に出陣した。1585年人取橋の戦いで奮戦した。1588年大崎義隆攻めの総大将として中新田城(中新田町)などを攻めるが、大崎家とつながりのある舅黒川晴氏の裏切りもあり大敗した。しかし黒川の厚意で窮地を脱したこともあり、黒川の助命嘆願をしてこれを救っている。1591年伊達家移封に伴い黄海(藤沢町)に移住した。1592年朝鮮出兵に出陣し、帰還の途中で伊達姓を拝領する。1600年関ヶ原の戦いでは最上義光への援軍を率い、直江兼続率いる上杉軍と戦っている。1604年一関城(一関市)に移った。

国分盛重(1553〜1615)

伊達晴宗の五男。彦九郎。国分盛氏の養子となる。千代城主(仙台市)。盛重の国分氏入嗣には鬼庭良直の計略があった。置賜地方では下長井荘玉庭(川西町)、萩生城(飯豊町)などが国分氏の所領とされる。また最上義光に追われて千代に逃れた天童頼澄を迎えている。人取橋の戦いで活躍し、摺上原の戦い後は鮎貝城(白鷹町)を守備した。葛西・大崎一揆では米沢城留守居を努めた。蒲生氏郷の疑いを解くため、名生城に人質として赴いたこともある。しかし1599年病と称し、岩出山城(岩出山町)の政宗のもとに来なかったため、政宗は盛重を疑い、殺害を図ったので佐竹氏のもとに逃れ、佐竹家臣として横手城に住んだ。

大有康甫(1534〜1618)

伊達稙宗の十三男。一風軒。東昌寺(東正寺)十四世住職。6歳で出家し、伊達家の外交官として活躍。東昌寺に滞在していた虎哉宗乙を輝宗の嫡男梵天丸(後の政宗)の教育係に推挙した。1600年仙台北山に東昌寺を移した。南陽市赤湯にある東正寺はかつて東昌寺と称し、『赤湯温泉誌』では慈覚大師の草庵があった所に伊達家が押領した際、伊達家4代目の伊達政依(粟野蔵人)が跡地に精舎を建て、東昌寺と号したと伝える。ほかに1338年道叟道愛開山説と1383年長井氏を滅ぼし、9代伊達政宗が高畠城に入ってから元中年間に建立した説がある。仙台の東昌寺に伝わる説では1283年伊達政依が建立し、陸奥安国寺となり、1383年伊達氏の置賜郡攻略とともに夏刈(高畠町)に移り、大有康甫の時に仙台に移したとされる。しかし夏刈には以前から長井氏が開基した大寺院の資福寺があり、虎哉宗乙が資福寺住持になったことで赤湯の東昌寺と由来が混同した可能性もある。また『米沢地名選』によると東昌寺北山腹に「永仁二年(1294年)伊達式部少輔」の古碑があるとして、米沢に館を置く長井氏を滅ぼす以前から伊達氏は赤湯近辺を支配していたとも考えられる。赤湯に隣接する二色根に3代伊達義広の後胤という粟野氏が居城を置き、やはり伊達政依が建立したという観音寺(明治に廃寺)があったことと併せて考えると、東昌寺も長井氏滅亡以前から赤湯近辺を押領した伊達氏よって移されたか、最初から当地に建立された可能性がある。また伊達政依が建てた東昌寺、光明寺、満勝寺、観音寺、興福寺は伊達五山と呼ばれ、のち観音寺と興福寺は長井氏が建てた資福寺に統合され、資福寺から伊達輝宗を弔う覚範寺が分かれ再び五山になったという。

小梁川宗朝(1469〜1565)

小梁川親朝の弟。京で兵法・剣術を修行し、鞍馬山中で暮らしていたが、将軍足利義晴に召しだされる。伊達稙宗も黄金を贈って扶持した。帰国して稙宗に近侍したが、1542年稙宗が嫡男晴宗により西山城に幽閉されると、変装して城に潜入し、稙宗を救出した。天文の乱では稙宗方として活躍し、稙宗が隠居して丸森城(丸森町)に移るとこれに従った。稙宗が亡くなると殉死した。息子宗秀は1570年天文の乱の元凶で伊達家の政治を牛耳った中野宗時が主君輝宗に背いたとき、先鋒として小松城(川西町)の中野宗時を攻め、宗時を相馬に追いやったが戦死した。

小梁川盛宗(1523〜1595)

小梁川親宗の子。泥蟠斎。高畠城主(高畠町)。小梁川氏は伊達家11代伊達持宗の三男盛宗に始まり、2代親朝は1514年伊達稙宗に従い、最上氏を長谷堂(山形市)に破り、長谷堂城を守備した。3代親宗は天文の乱で晴宗方について高畠城主となる。中野宗時と共に北条氏康への使いもしている。4代盛宗は1570年中野宗時らが伊達輝宗に背き、討伐を受け相馬に逃れた際、むざむざ高畠城下を通過させてしまったため輝宗に叱責された。1574年最上家での義守・義光の父子争いに際し、輝宗の命で最上家臣里見民部の守る上山城(上山市)を攻め、細谷で最上軍と戦った際は先鋒も務めた。1585年刈松田で大内定綱と戦う。後に出家して泥蟠斎を称す。政宗に近侍し、種々献策しており、勇武に秀でた謀臣だったという。

桑折貞長(?〜?)

播磨守。景長。桑折氏は伊達家3代伊達義広の長男親長に始まり、伊達郡桑折を領した。貞長(景長)は天文の乱において中野宗時と共に世子伊達晴宗に働きかけ、実元の上杉家入嗣を阻止させた。貞長は晴宗の参謀として活躍し、晴宗を奥州探題にするため奔走し、自身も守護代に任ぜられ、播磨守を名乗った。この奥州探題補任の返礼に鷹・馬・黄金三十両を贈っている。景長(貞長)は小松城主(川西町)で1577年小松城で没している。

桑折宗長(1532〜1601)

桑折貞長の子。点了斎。宗長は最初、出家して覚阿弥と称し、相模国藤沢遊行寺にいたが、本来の跡継ぎが早く亡くなったため還俗して貞長の跡を継いだ。1576年相馬氏との戦いに臨み、起請文を出し、1585年人取橋の戦いで活躍。1588年郡山の役では軍奉行。1589年摺上原の戦いでも子の政長と出陣した。政長は朝鮮出兵で病死したため、石母田景頼が桑折家を継いだ。宗長は伊達政宗の評定衆でしばしば談合に加わった。

虎哉宗乙(1530〜1611)

臨済宗の僧。美濃の福地氏の出で快川紹喜の門下として首座を勤めた。当初、伊達輝宗の叔父康甫が住職を勤める東昌寺に寓居していたが、1572年輝宗の要請で資福寺(高畠町)の住持となり、伊達政宗の師としても活躍する。した。1575年明人の翰林学士楊一龍が東昌寺に寄寓した際、宗乙と詩を唱和したという。また同年、京都妙心寺の住持にもなった。数々の寺の住持を歴任したが、1587年には非業の死を遂げた輝宗のため、政宗を開基として米沢の郊外遠山に覚範寺を開いた。1600年覚範寺を仙台に移転している。また松島瑞巌寺の再興を政宗に勧め、1604年から5年かけて再建させた。齢80にして歯が生えたともいう。

片倉景綱(1557〜1615)

米沢八幡神主片倉景重の子。母は本沢刑部の娘。小十郎。置賜郡では小桜城(長井市)、片倉館(長井市)、夏刈城(高畠町)などが片倉氏の城館とされる。景綱は遠藤基信に見出されて伊達輝宗の小姓に抜擢され、1575年輝宗の嫡男政宗の近侍となる。疱瘡で片目を失った政宗を補佐し、その知略で政宗の参謀として活躍した。1585年人取橋の戦いでは政宗を守り、奮戦した。1589年摺上原の戦いでは第二陣を受け持ち、戦見物をしている農民たちに発砲して逃げさせた。これを味方の敗走と勘違いした芦名軍は浮き足立ち、合戦に勝利したという。二本松城在番や大森城主(福島市)も務めている。豊臣秀吉からの小田原参陣要求に伊達家では臣従するか、一戦交えるか揉めたが、景綱は秀吉を蝿に例えて追い払ってもまた来ると言い、政宗に参陣を決意させた。1591年伊達家転封により亘理城主(亘理町)となる。朝鮮出兵でも軍船を賜り、活躍した。1600年関ヶ原の戦いに際しては西軍上杉景勝の白石城を攻め落とし、白石城主(白石市)となる。また上杉軍に攻められている最上義光から援軍要請を受けたときは主君政宗に「山形城は犠牲にして双方疲労の極みに達した時に上杉軍を完膚なきまでたたくべき」と献策したが、政宗の母、義姫が山形に居るのを知っていての冷酷な策だったため、さすがの政宗も怒って拒否した。伊達成実や茂庭綱元とともに「伊達の三傑」と並び称せられたり、「武の成実、知の景綱」とも言われた。上杉家の直江兼続とともに二大陪臣として高く評価され、秀吉からも五万石の大名にすると誘われたが、自分は伊達家の家臣であると断った。1615年息子重長を自分の代わりに大坂の陣に出陣させた。

片倉重長(1585〜1659)

片倉景綱の子。小十郎。生まれた時、父景綱はまだ子が無い主君の政宗を慮って幼い重長を殺そうとしたという。重長は美丈夫で評判であったために、想いを寄せる小早川金吾秀秋に追い掛け回されたという。一方、勇猛果敢で「鬼の小十郎」の異名をとった。1600年白石城攻めに父とともに参加。1615年大坂夏の陣では奮戦し、後藤又兵衛や薄田隼人など名だたる勇将の軍を撃破し、討ち取った。続いて真田幸村と対決した。重長の勇将ぶりを見込んだ幸村は娘阿梅を重長に託し、重長は阿梅を妻とした。こうして真田家の血は片倉家に受け継がれた。

喜多(1539?〜1610?)

鬼庭良直の娘。母は本沢刑部の娘。鬼庭綱元の異母姉。片倉景綱の異父姉。少納言。伊達政宗の乳母を勤めたという。

鬼庭良直(1513〜1585)

周防守。左月入道。鬼庭家は茂庭(福島市)と置賜郡永井(長井)荘の一部を領した。置賜郡永井荘川井(米沢市)に居館を構えた。伊達輝宗に重用され、評定役を務め、国分盛重の国分家入嗣のため画策した。1585年人取橋の戦いでは金色の采配を賜って総軍を指揮した。良直はしんがりとして奮戦し、200の首を挙げたが、老齢のため甲冑を着けず黄色の帽子をかぶって戦ったため、敵の目標となり岩城家臣窪田十郎に討ち取られた。しかしこの活躍で政宗は難を逃れることができた。

鬼庭綱元(1549〜1640)

鬼庭良直の長男。石見守。1575年家督を継ぎ、置賜郡永居郷川井城主(米沢市)となる。1585年人取橋の戦いで父良直を討った窪田十郎を捕らえたが、捕虜を斬るのは士道に恥じるとして仇を討たず釈放した。窪田十郎は感じ入って綱元の家臣となったという。1586年奉行に抜擢される。補給手腕に優れ、政宗の軍事行動を支え続けた。葛西・大崎一揆の件で政宗が一揆扇動の嫌疑を受けた際は上洛して弁明に努めた。1592年朝鮮出兵では肥前名護屋城で物資補給を任され、伊達軍に餓死者を出さなかった。豊臣秀吉に気に入られ、茂庭姓に改めさせられたり、側室香の前を与えられたりした。だが政宗の怒りを買って一時出奔したが、香の前を政宗に献上して許された。1600年上杉景勝を攻めた際は湯原城(七ヶ宿町)を攻略した。政宗の長男秀宗が宇和島藩主になった際は、宇和島に赴き初期の藩政を助けている。国老として数十年間活躍した。伊達家の内政・補給面を支え片倉景綱、伊達成実とともに「伊達の三傑」と呼ばれた。

遠藤基信(1532〜1585)

役行者金伝坊の子。山城守。伊達家で権力を握っていた中野宗時に見出されて用いられた。しかし、宗時の謀反の企みを知り、新田景綱とともに輝宗に訴えた。中野宗時らは討伐されて相馬へ逃亡し、宗時に代わり基信が伊達家の政治を司ることになった。基信は宿老に任ぜられ、織田信長、徳川家康、北条氏照らとの外交交渉を進めたり、片倉景綱など優秀な人材を見出したりした。1585年自分を重く用いてくれた主君輝宗が畠山義継に拉致され、非業の死を遂げると輝宗に殉死した。その墓は輝宗の墓に並ぶように資福寺跡(高畠町)に残されている。

屋代景頼(1563〜1608)

勘解由兵衛。屋代氏は置賜郡屋代荘(高畠町)を本拠とし、景頼の祖父屋代閑盛の時代には伊達家国老となるほどであった。しかし父の代で罪があり所領は没収され、兄は鹿股源六郎を名乗って鹿股家に入ったため景頼が屋代家を継いだ。景頼は政宗に近侍し、旧領を回復。1591年国老に任ぜられた。葛西・大崎一揆鎮圧では一揆を起こした物頭衆をだまし討ちで皆殺しにした。1592年朝鮮出兵が始まると岩出山城の留守を預かり、国政を取り仕切った。1596年伊達成実が政宗の命に背き、高野山へ出奔すると成実の居城角田城(角田市)を攻め、成実の妻子や家臣を討ち取っている。1600年関ヶ原の戦いに際し、最上義光への援軍として直江兼続率いる上杉軍と戦い、福島城攻めの第二陣も務めた。しかし、驕った振る舞いが多いという理由で1607年所領を没収され、浪人する。翌年、近江で死去したという。裏の仕事を仰せつかることが多かった景頼だが政宗の弟小次郎の殺害を命じられた際は、さすがに再三辞したため、政宗自身の手で弟小次郎を殺したという。

原田宗時(1565〜1593)

左馬助。幼名虎駒。原田城主(川西町)。山嶺源一郎の子だが、1582年伯父原田大蔵宗政が戦死した跡を継いだ。1585年牢人平田を派遣して芦名の武将を内応させ、会津を攻めたが平田自身が敵方に走ったため敗北した。原田は後藤信康が自分を笑ったことを怒り、決闘を申し入れたが信康は二人が争って死ぬことは国の損失で、国のために戦って死ぬことが大切と説き、原田は己の未熟さを悟り、信康と親交するようになった。1585年刈松田に出陣し、大内定綱に備えた。続いて本宮に出陣し、佐竹・岩城連合軍に備えた。1588年郡山の戦いでは評定衆として活躍。また原田家は宿老の家柄で常日頃から政宗に近侍し、談合に参加した。1592年原田は朝鮮出兵への出陣で大太刀を背負い、金の鎖で結び、駿馬にまたがり現れ、伊達軍中でも一層目立ったという。しかし翌年釜山で病気になり、対馬まで帰るがそこで亡くなった。29歳の若さであった。なお原田宗時の孫、原田甲斐守宗輔は伊達騒動の中心的人物で、事件を起こした罪で原田家は断絶した。

後藤信康(1555〜1614)

湯目重弘次男。後藤信家養子。肥前守。孫兵衛。知勇兼備の将で黄色の母衣を背負って戦ったことから「黄後藤」と呼ばれた。1585年芦名氏攻略の別働隊として米沢から桧原峠を越え、桧原(北塩原村)を攻略し、桧原城を守備した。しかし退屈なので従者が逃げてしまいましたなどと政宗に言上している。原田宗時が内応させた芦名の武将と芦名の本拠地黒川城(会津若松市)を攻めて敗退した時、信康はこの話を聞き笑った。原田は怒って信康に決闘を申し入れたが、信康は碁を指しながら「お主の言うことはもっともで、決闘を受け入れても構わない。だが私的な理由でお主のような勇士が命を落とすのは国にとっての損失だ。むろん私もこんなことで命を失いたくはない。互いに国のために戦い死ぬことがほんとうではないか。」と語った。これで原田は自分が未熟であると恥じて信康と親交するようになった。二人は朝鮮出兵の出陣式で2.7mの大太刀を金の鎖で肩から下げ、派手な伊達軍の中でも一層目立った。原田が朝鮮出兵中に病で29歳の若さで亡くなると信康は原田の大太刀を譲り受け、家宝にしたという。葛西・大崎一揆では佐沼の戦いで敵将山上内膳を一騎打ちで倒し、宮崎城攻めでは夜襲をかけ落城させたが軍令違反で知行没収となった。またキリシタン武将の後藤寿庵を義弟としている。仙台城築城では普請総奉行を勤めた。大坂の陣では出陣を命ぜられなかったことに抗議するため、愛馬「五島」にまたがり、城の本丸から飛び降りて死んだとも伝えられる。

湯目景康(1564〜1638)

湯目重康の子。豊前守。幼名知喜力。湯目氏は大橋(南陽市)、長岡(南陽市)、筑茂(高畠町)、洲島(川西町)などに城館を構え、最上川、吉野川、和田川の合流する置賜盆地中央部に勢力を張っていたらしい。吉田東伍博士によれば赤湯の旧名が湯野目であるとしており、或いは赤湯由来の豪族かとも推測される。景康は人取橋の戦い、摺上原の戦い、葛西・大崎一揆鎮圧で活躍し、佐沼城(迫町)を与えられる。朝鮮出兵でも活躍。1595年豊臣秀次が謀反の疑いで切腹させられた事件で主君の政宗が謀反加担の疑いをかけられた際、津田原で秀吉に拝謁し、政宗に罪が無いことを訴えた。これ以降、津田と改姓したという。関ヶ原の戦いでは白石城攻略や最上への援軍の副将として活躍。大坂の陣でも活躍した。

粟野秀用(?〜1595)

木工頭。喜左衛門。二色根城主(南陽市)。伊達小次郎の傅役であったが、小次郎が兄政宗に斬られたため、伊達家を出奔し、関白豊臣秀次に仕えた。武功により取立てられ、伊予松前十五万石の大名にまでなるが、秀次事件に連座して1595年自害した。このつながりで政宗も秀次一味と見られ、秀吉への弁明に奔走することになった。粟野氏は南陽市川樋、岩部山などに居館を持ち、南陽市付近で勢力があったらしい。また、かつて二色根には伊達家4代目伊達政依(粟野蔵人)開基とされる観音寺があった。伊達家3代目伊達義広は「粟野次郎」を名乗っており、『米沢事跡考』によると粟野氏は伊達義広の後胤にあたるらしい。

鮎貝宗重(1555〜1624)

日傾斎。鮎貝城主(白鷹町)。家督を政宗に譲った輝宗を隠居城の館山城が完成するまで私邸に迎えている。子の鮎貝宗信と仲が悪く、1587年宗信は最上義光の謀略に乗り謀反する。宗重は宗信を説得したが、聞き入れられず、政宗に言上して鮎貝城を攻めさせ、宗信を最上に追いやった。その後、政宗の近侍として種々の談合に参加した。

鮎貝宗信(?〜?)

鮎貝宗重の子。藤太郎。忠旨。鮎貝城主(白鷹町)。父、鮎貝宗重と仲が悪く、1587年最上義光の謀略に乗り謀反する。宗重は宗信を説得したが宗信は聞き入れず、政宗に鮎貝城を攻められ、最上に落ち延びた。

新田景綱(?〜?)

遠江守。景綱の息子義直は中野宗時の孫娘を妻にしていたが、1570年中野宗時の謀反に加担し、それを知った父、景綱は遠藤基信らと主君輝宗に訴え、息子義直を館山城(米沢市)に滅ぼし、中野宗時らの追討軍を率いて小松城(川西町)を攻め落とした。別の息子義綱は1585年後藤信康とともに桧原城(北塩原村)に在番した。

中野宗時(?〜?)

常陸介。伊達稙宗に仕え『塵芥集』制定の際、家老評定人として連署している。1542年稙宗の子実元が上杉定実の養子に入るとき、稙宗の嫡男晴宗を説いてこれを実力で阻止させ、稙宗を西山城に幽閉させた。こうして天文の乱が始まると晴宗の参謀として活躍し、天文の乱を晴宗の勝利に導く。家督を継いだ晴宗から重用され、多大な所領得た。次男久仲には宿老牧野家を相続させ、伊達家中随一の権勢を振るった。1555年晴宗の左京大夫任官と輝宗の将軍の一字拝領に奔走し、子の牧野久仲を守護代にした。また北条氏康への使者も務めている。だが、1565年輝宗が家督を継ぐと宗時を抑えようとする輝宗と対立し、1570年息子牧野久仲や新田義直らと謀反を計画した。だが、宗時に仕えていた遠藤基信や義直の父新田景綱らが輝宗に訴えたため輝宗に追討される。新田景綱、小梁川宗秀らの追討軍に小松城(川西町)を攻められ、落城。高畠、白石を抜け相馬へ逃れた。先代の晴宗や実元を通じて輝宗に帰参の許しを請うたが許されず、相馬から会津に流浪したが、飢えと寒さで死去したという。息子久仲も孫美濃も許されず、その次の盛仲に至って伊達政宗に召しだされた。

牧野久仲(?〜?)

中野宗時の子。弾正忠。宗仲。天文の乱の最中、伊達家累代の宿老、牧野宗興とその子景仲が相次いで没し、久仲が牧野家に入った。天文の乱後、父中野宗時とともに権勢を握り、伊達晴宗の奥州探題任官に奔走。桑折貞長とともに守護代となる。だが1570年父とともに小松城(川西町)で伊達輝宗に謀反し、輝宗の討伐を受けて相馬に逃れた。のち帰参を乞うが許されなかった。孫の盛仲に至って許され、伊達政宗に召しだされた。

上郡山景為(?〜?)

右近丞。小国城主(小国町)。伊達家移封により、玉造郡宮沢城に移った。

錦織即休斎(?〜?)

伊達政宗の側近。二本松城攻略中の政宗より書を送られる。度々茶・料理の席に相伴している。佐竹義重との和睦では検使役を勤め、談合にも参加。政宗の母義姫が政宗を毒殺しようと毒を盛った際、政宗に薬を調進して政宗の命を救った。(『貞山公治家記録』を参照)

白石宗実(1553〜1599)

白石宗利の子。若狭守。白石城主(白石市)。祖父実綱は天文の乱で西山城を追われた伊達晴宗を白石城に迎え、晴宗方として活躍。父宗利は1570年中野宗時が輝宗の追討を受けて相馬に逃れる途中、むざむざ白石を通過させたことで輝宗の怒りを買ったが、同様に見逃した高畠城主小梁川盛宗とともに許されている。宗実は伊達政宗に従い1576年相馬攻めに際して起請文を出し、1584年相馬の駒ヶ嶺城攻めの殿(しんがり)を勤めた。1585年大内定綱と戦い、敵の小浜城の内応を画策。1586年相馬義胤からの伊達・畠山和睦要請を政宗に取り次いでいる。これらの功で塩松城主となる。1588年郡山の役では軍評定に加わり、1589年摺上原の戦いでは第四陣を勤めた。政宗の移封に伴って水沢城主(水沢市)となり、1593年には朝鮮出兵に出陣した。しかし、1599年伏見で47歳で死去したため、梁川宗清(伊達稙宗の子)の子宗直が跡を継いだ。

鈴木元信(1555〜1620)

岩出山市正の子とも、会津黒川の穂積氏の出ともいう。伝えられる名前も秀信、高信、重信と多い。和泉守。商人の出で、京で茶を学び、茶道の師として政宗に召抱えられた。行政・経営に優れたため重用された。政宗の移封に伴い、古川城主(古川市)となる。伊達政宗が天下を取った時のために「式目」「憲法」草案を作ったが、幕府が安定したため、臨終の際に幕府の疑惑を招くからとして焼却したという。

支倉常長(1571〜1622)

山口常成の子で現在の米沢市関の地に生まれたという。支倉忠正の養子。与市。六右衛門。支倉氏は柴田郡支倉(川崎町)を領有した。政宗の命により、宣教師ソテロとともに月ノ浦(石巻市)から出航し、メキシコ、スペイン、ローマを訪れる。スペインでは洗礼を受け、ローマではローマ教皇に謁見した。だが目的の通商締結は不成功に終わり、マニラを経由して1620年日本に帰った。しかし帰国した頃は既にキリシタン弾圧に乗り出しており、常長が活躍することは無かった。

泉田重光(1529〜1596)

泉田景時の次男。安芸守。泉田景時は伊達晴宗の代から家臣になった。1582年重光の兄光時が対相馬戦で戦死したため、重光が跡を継いだ。重光は岩沼城主(岩沼市)となり、政宗のもとで二本松城攻略などに活躍。1588年大崎義隆の中新田城(中新田町)を攻めた際は大敗し、重光が最上氏の人質になることで撤退できた。和議の後、伊達家に戻り、朝鮮出兵にも従軍した。

小山田頼定(?〜1588)

筑前守。柴田郡小山田の領主。1588年留守政景に従い、軍奉行として大崎義隆の中新田城を攻めるが、敵将南条隆信の抵抗で苦戦。退却中に敵兵に討たれた。勇将であったという。

山岡重長(1544〜1626)

志摩守。柴田郡小成田の領主で輝宗の頃から伊達家に仕えた。1588年大崎義隆攻めでは軍目付。1590年葛西・大崎一揆鎮圧に功があった。朝鮮出兵では敵の女武者を生け捕り、妻にして帰った。大坂の夏の陣でも功を挙げた。