会津街道

米沢藩内街道の一里塚の基点になった米沢大町札の辻。船坂峠から米沢を望む。

(写真左:米沢藩内街道の一里塚の基点になった米沢大町札の辻。)(写真右:船坂峠から米沢を望む。)

綱木宿。かつては会津街道の宿場として栄えた。檜原峠に代わる林道の頂上。この先福島県。

(写真左:綱木宿。かつては会津街道の宿場として栄えた。)(写真右:檜原峠に代わる林道の頂上。この先福島県。)

会津側の道標。会津街道(米沢街道)はここで分岐して檜原峠を越えた。檜原峠を下った先の「鷹の巣一里塚」。

(写真左:会津側の道標。会津街道(米沢街道)はここで分岐して檜原峠を越えた。)

(写真右:檜原峠を下った先の「鷹の巣一里塚」。)

伊達政宗に滅ぼされた穴沢一族の五輪塔。檜原歴史館。檜原湖に沈んだ檜原宿から檜原検断屋敷を移転・改修したもの。

(写真左:伊達政宗に滅ぼされた穴沢一族の五輪塔。)

(写真右:檜原歴史館。檜原湖に沈んだ檜原宿から檜原検断屋敷を移転・改修したもの。)

会津街道は米沢と会津を結ぶ街道で会津側では米沢街道と呼ぶ。米沢大町札の辻を基点に南下した街道は米沢藩の半士半農の武士「原方衆」が守った南原を通り、船坂峠(530m)に至る。船坂峠は米沢からは最初の峠で、登りきると小野川温泉から白布温泉に向かう道と交差し、関地区へ入る。関はスペインに渡った伊達政宗家臣、支倉常長の生誕地で山口常成の子として当地に生まれたという。関からは綱木峠、檜原峠を越えて会津に向かう。綱木宿は綱木峠と檜原峠の間に位置する宿場で、戦国時代には既にあったらしい。『邑鑑』によると戸数は五十五戸、寛政年間には宿屋が四軒だったという。しかし国道121号線大峠道路などの開通により綱木は衰えていった。綱木からは旧街道に代わって設けられた林道を通って檜原峠(1094m)を越える。福島県側に降りると旧米沢(会津)街道檜原峠の別れ道を示す標がある。今は旧街道も見当たらない。さらに下ると会津藩主保科正之によって整備された「鷹の巣一里塚」がある。会津街道は山越えが多い街道であるが、戦国時代には伊達政宗の会津侵攻に用いられ、上杉景勝が会津に入って米沢に重臣の直江兼続を置くと領内の二大拠点を結ぶ重要な街道となった。江戸時代も重要な交通路で様々な荷が運ばれ、三山参拝者や巡検使も行き来した。戊辰戦争でもこの峠が用いられた。

檜原は昔、檜木谷地という湿地で木地師が住むばかりの土地であった。ところが大塩(北塩原村)と檜原の間に山賊が住み着き、旅人を襲ったため文明十八年(1486年)蘆名盛高の命で穴沢俊家が山賊を討ち、檜原に築城して当地を守るようになった。永禄七年(1564年)から三年にわたり、毎年の様に米沢城主伊達輝宗が檜原峠を越えて会津に侵攻したが、檜原を守備する穴沢加賀守信徳(俊恒)が防いできた。しかし天正十二年(1584年)輝宗の跡を継いだ伊達政宗は穴沢一族の四郎兵衛に謀反を起こさせ、穴沢信徳ら一族を滅ぼした。翌1585年会津蘆名氏の重臣松本備中守輔弘が政宗に内応し、原田左馬助宗時や新田常陸介義綱らが伊達軍を率いて檜原を攻略した。檜原の小谷山に後藤孫兵衛信康が檜原城を築いて在番するようになった。この檜原攻略をきっかけに蘆名氏からは猪苗代盛国など伊達への内応が相次ぐようになり、遂に天正十六年(1588年)磐梯山麓で行われた摺上原の戦いで伊達政宗が蘆名盛重(義広)を破り、蘆名盛重は実家の常陸佐竹氏のもとに逃れて会津守護として近隣に武威を示してきた名門蘆名氏は滅亡したのである。

江戸時代になり、1605年檜原で金山が発見されて檜原は大いに栄えた。会津と米沢を結ぶ街道の要衝として人や物の流れも多くなり、宿場としても発展した。流通物資の取締を行う「検断屋敷」も置かれ、松本氏が検断役を勤めた。だが檜原宿は明治二十一年(1888年)磐梯山の噴火により川がせきとめられて檜原湖ができるとその湖底に沈むこととなったのである。集落は湖の南北に移転し「検断屋敷」も移転・改修された。現在は「會津米沢街道檜原歴史館」として湖に消えた檜原の歴史を今に伝えている。