檜原宿

会津街道 西吾妻スカイバレー

 
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檜原歴史館。檜原湖に沈んだ檜原宿から檜原検断屋敷を移転・改修したものという。明治21年の磐梯山噴火で檜原宿は檜原湖の湖底に沈んでしまった。
伊達政宗に滅ぼされた穴沢一族の五輪塔。檜原にできた日帰り温泉「湖望」。

檜原は昔、会津と米沢を結ぶ街道が通ってはいたものの檜木谷地という湿地で木地師が住むばかりの土地であった。ところが大塩(北塩原村)と檜原の間に山賊が住み着き、旅人を襲ったため文明十八年(1486年)蘆名盛高の命で穴沢俊家が山賊を討ち、檜原に築城して国境を守るようになった。永禄七年(1564年)から三年にわたり、毎年の様に米沢城主伊達輝宗が檜原峠を越えて会津に侵攻したが、檜原を守備する穴沢加賀守信徳(俊恒)が防いできた。しかし天正十二年(1584年)伊達政宗は穴沢一族の四郎兵衛に謀反を起こさせ、穴沢信徳らを滅ぼした。翌1585年会津蘆名氏の重臣松本備中守輔弘が政宗に内応し、原田左馬助宗時や新田常陸介義綱らが伊達軍を率いて檜原を攻略した。檜原には後藤孫兵衛信康が小谷山城を築いて在番するようになった。この檜原攻略をきっかけに蘆名氏からは猪苗代盛国など伊達への内応が相次ぐようになり、遂に天正十六年(1588年)磐梯山麓で行われた摺上原の戦いで伊達政宗が蘆名義広を破り、会津守護として近隣にも武威を示してきた名門蘆名氏は滅亡したのである。
江戸時代になり、1605年檜原で金山が発見されて檜原は大いに栄えた。会津と米沢を結ぶ街道の要衝として人や物の流れも多くなり、宿場としても発展した。流通物資の取締を行う「検断屋敷」も置かれ、松本氏が検断役を勤めた。だが檜原宿は明治二十一年(1888年)磐梯山の噴火により川がせきとめられて檜原湖ができるとその湖底に沈むこととなったのである。集落は湖の南北に移転し、「検断屋敷」も移転・改修された。現在は「會津米沢街道檜原歴史館」として湖に消えた檜原の歴史を今に伝えている。

 

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