畑谷城

畑谷城址に立つ江口光清の碑長松寺の江口五兵衛光清の墓

(写真左:畑谷城址に立つ江口光清の碑)(写真右:長松寺の江口五兵衛光清の墓)

慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いに伴い、奥羽でも山形を舞台に「慶長出羽合戦」と呼ばれる戦いが始まった。当時、山形城主最上義光の領地は上杉景勝の領地である米沢と庄内の間を分断しており、上杉家重臣で米沢城主の直江兼続は状況を打破するため山形城攻略を開始した。直江兼続は敢えて山越えの難所だが最短で山形に到達する狐越経由で最上義光を攻めた。その途中で立ちはだかったのが畑谷城を守る江口五兵衛光清(道連)である。江口光清は主君義光とともに連歌を詠むなど文武両道の武将であった。義光は江口に畑谷城を放棄して山形に退去するよう指示したが江口は武士の意地として退去命令を拒み、三百五十ばかりの僅かな兵のみで畑谷城で兼続率いる二万の上杉軍を迎え撃った。直江兼続は降伏を促したが江口は忠義を貫いた。9月11日上杉軍の攻撃が始まるが、江口は川をせき止めて城の周りを沼地にして抵抗を続け、上杉方は百名の死傷者を出す。兼続は堰を決壊させて対処し、9月13日総攻撃をかけた。上杉の猛攻の前についに畑谷城は落城して江口光清は自害。畑谷は撫で斬りの憂き目を見た。畑谷城下の長松寺には江口五兵衛光清の墓と彰徳碑が立っている。