長谷堂城

長谷堂城の城郭復元図

(写真:長谷堂城の城郭を復元した地図。)

菅沢の直江兼続本陣跡から望む長谷堂城。直江兼続が本陣を置いた菅沢山は現在「すげさわの丘」となっている。長谷堂城址の碑。

(写真左:菅沢の直江兼続本陣跡から望む長谷堂城。直江兼続が本陣を置いた菅沢山は現在「すげさわの丘」となっている。)

(写真右:長谷堂城址の碑。)

山形の南西、長谷堂の地は昔から山形を守る要衝の地で戦場になった。1514年には伊達稙宗が最上義定を長谷堂で撃破し、最上氏は一時期、伊達の傀儡となるほど力を失った。

慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いに伴い山形でも「慶長出羽合戦」という上杉と最上の戦いが行われた。上杉軍を率いる名将直江兼続は荒砥城を出発して9月13日畑谷城を攻略。山形盆地に面する西部丘陵地帯に進出した。正面に長谷堂城が見渡せる菅沢山に本陣を置く。長谷堂城は標高227mの独立丘陵にある要害で、長谷堂城が陥落すれば平地に築かれた山形城は防衛線を失う。兼続率いる上杉軍本隊は二万余の大軍である。山形城主最上義光は重臣志村伊豆守光安に副将として剛勇で聞こえた鮭延越前守秀綱を付けて長谷堂城を守備させた。

14日兼続は長谷堂城を包囲した。義光も須川東岸の若宮に本陣を置き、上杉軍の山形侵入に備えた。翌15日上杉軍の水原親憲率いる鉄砲隊が谷柏を経て清水義親、楯岡光直ら須川の最上軍を攻撃して最上軍は三百名が戦死。義光は嫡男の最上義康を伊達政宗に遣わし救援を求めた。16日兼続は長谷堂城に力攻めを仕掛けるが志村光安はこれを防ぎきる。逆に家臣の横尾勘解由・大風右衛門らに二百余名の決死隊を預けて上杉軍の寄せ手で兼続の腹心春日元忠の陣に夜襲をかけて上杉軍を大混乱させる。17日兼続は春日に命じて長谷堂城に猛攻を仕掛けるも撃退され、さらに青田刈りして挑発するが城方はその手に乗らなかった。逆に副将の鮭延秀綱が虚を突いて攻撃し、上杉本陣を脅かす戦いぶりを見せたという。兼続も「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と賞賛した。

上泉主水正泰綱が戦死したという場所に残る主水塚。菅沢の直江兼続本陣跡にある長谷堂の古戦場図。

(写真左:上泉主水正泰綱が戦死したという場所に残る主水塚。)(写真右:菅沢の直江兼続本陣跡にある長谷堂の古戦場図。)

最上家の危機に際し、山形城郊外の南館に住んでいた最上義光の妹で伊達政宗の母義姫も伊達に援軍を催促し、政宗もついに援軍の派遣を決意した。政宗は叔父の留守政景に兵三千を預け、屋代景頼、湯目加賀守らの将を従えた援軍を差し向けた。22日伊達の援軍は笹谷峠を越えて山形城東方の東沢に着陣するが様子を見て動かなかった。政宗が最上と直江の共倒れを狙ったとも、9月15日に関ヶ原の戦いで石田三成が敗れたという情報を掴んでいたともいい無駄な戦闘を避けたのかも知れない。一方で半月が過ぎても城を落せない上杉方は焦り、9月29日上杉軍の猛将で新陰流の剣豪でもある上泉主水正泰綱が戦死した。

その頃9月15日時点で関ヶ原にて石田三成が敗北していたという知らせが兼続にも届く。一変して窮地に陥った兼続は撤退を決断した。富神山山麓から畑谷方面に撤退を始めた兼続に最上義光は追撃を開始。伊達援軍も上杉軍への攻撃を開始するが上杉方の反撃で伊達の湯目加賀守は戦死。上杉軍は自害を覚悟した兼続を前田慶次が叱咤して兼続を守るために奮戦したといい、上杉軍は水原親憲率いる鉄砲隊の射撃で兼続を守りつつ撤退戦を続ける。なおも猛追する最上義光に上杉鉄砲隊が火を噴き、義光をとめようとした側近堀喜吽は鉄砲に撃たれて戦死し、義光も兜に被弾した。上杉の激しい反撃を受けた義光は追撃を断念。直江兼続率いる上杉軍は撤退に成功して10月3日荒砥城に帰還した。