白龍湖

十分一山から見下ろした白龍湖と周辺に広がる大谷地。奥にあるのが赤湯の町並。白龍湖と近くの鳥上坂は昔から風光明媚な場所とされ、名勝「赤湯八景」に入る(元禄年間の関原長秀選で『雲夢樓』『鳥路坂』(鳥上坂)『白龍湖』『洞松寺』(東正寺)『金澤』『津田』(赤湯北町付近)『駁嶺』『觚堂』の八つ)。上杉鷹山は「赤湯八景」を画家の目賀田雲川に描かせ、莅戸善政、神保綱忠ら家臣が漢詩を添えて『丹泉八勝詩画』がつくられた。「鳥上坂」は米沢街道随一の難所で「鳥も上れぬ鳥上坂」といわれた。米沢藩の文人はこれを「羊腸」と表現している。

(写真左:十分一山から見た白龍湖と周辺に広がる大谷地。奥にあるのが赤湯の町並。)

(写真右:白龍湖と近くの鳥上坂は昔から風光明媚な場所とされ、名勝「赤湯八景」に入る(元禄年間の関原長秀選で『雲夢樓』『鳥路坂』(鳥上坂)『白龍湖』『洞松寺』(東正寺)『金澤』『津田』(赤湯北町付近)『駁嶺』『觚堂』の八つ)。上杉鷹山は「赤湯八景」を画家の目賀田雲川に描かせ、莅戸善政、神保綱忠ら家臣が漢詩を添えて『丹泉八勝詩画』がつくられた。「鳥上坂」は米沢街道随一の難所で「鳥も上れぬ鳥上坂」といわれた。米沢藩の文人はこれを「羊腸」と表現している。)

白龍湖は古代の置賜盆地に広がっていた湖の名残で、周辺には「大谷地」とよばれる湿地帯が南陽市から高畠町にかけて広がっている。大谷地周辺には日向洞窟や押出遺跡など縄文期の遺跡が多く見られ、古代から人々が暮らしていたことが窺える。直江兼続が米沢を統治すると、兼続の腹心で「直江被官の棟梁」と呼ばれた春日右衛門元忠が高畠城代となり、宮内の安部右馬助綱吉、赤湯の石岡丹波、深沼の結城治部ら在地の武士を使い、大谷地一帯を開発し、田畑を増やしていった。安部綱吉は吉野川の水を白龍湖に流してその土砂で大谷地を埋め立てて田畑に変える計画を立てたが実行に至らなかったという。

白龍湖は当時、赤湯沼と呼ばれた。白龍湖の名の由来は赤湯の東正寺(とうしょうじ)の若い僧に恋をした娘が添い遂げられないのを悲しみ、湖に身を投げ、白龍となって天に昇ったことから名付けられたも、別の話では赤湯の遊女が若い僧に捨てられ、湖に身を投げて白龍になって昇ったとも、また雨乞いのため村の美女を龍神に捧げようと美女を無理矢理湖の底に沈め、沈められた女のすすり泣きが聞こえたとも、湖から立ち上る湯気(水蒸気)が龍に見えたことからついたともいわれる。