羽黒山

有名な国宝羽黒山五重塔は平将門によるものという。

(写真:有名な国宝羽黒山五重塔は平将門によるものという。)

羽黒山の入口にある大鳥居。源頼朝が奥州藤原氏討伐のために建てさせたという黄金堂。

(写真左:羽黒山の入口にある大鳥居。)(写真右:源頼朝が奥州藤原氏討伐のために建てさせたという黄金堂。)

秋田由利郡の矢島藩主が建てさせた随神門。神橋から望む須賀の滝。

(写真左:秋田由利郡の矢島藩主が建てさせた随神門。)(写真右:神橋から望む須賀の滝。)

開祖蜂子皇子を祭る蜂子社。蜂子皇子の御墓所。

(写真左:開祖蜂子皇子を祭る蜂子社。)(写真右:蜂子皇子の御墓所。)

羽黒山中興の祖とされる別当天宥を祭る天宥社。最上義光の孫、家信によって寄進された鐘楼。

(写真左:羽黒山中興の祖とされる別当天宥を祭る天宥社。)(写真右:最上義光の孫、家信によって寄進された鐘楼。)

古鏡が多数見つかった鏡池。出羽三山神社本宮。出羽神社、月山神社、湯殿山神社の三神合祭殿。

(写真左:古鏡が多数見つかった鏡池。)(写真右:出羽三山神社本宮。出羽神社、月山神社、湯殿山神社の三神合祭殿。)

南谷別院跡の芭蕉句碑。羽黒山を訪れた松尾芭蕉の像。

(写真左:南谷別院跡の芭蕉句碑。)(写真右:羽黒山を訪れた松尾芭蕉の像。)

羽黒山は月山、湯殿山とともに出羽三山の一つで山伏の修験の山として広く知られている。その歴史は蘇我馬子に暗殺された崇峻天皇の第三子とされる蜂子皇子に始まる。蜂子皇子は参弗理ともいい蘇我馬子の魔手を逃れるため宮中を脱出して弘海と改名し、日本海側の由良(京都府)から船で北上し、八人の乙女に迎えられて由良(鶴岡市)の八乙女浦に上陸した。そして三本足の烏に導かれて羽黒山にたどり着き、推古元年(五九三年)に開山し、さらに月山、湯殿山を開山したという。その後、皇子は人々の病苦を救い「能除仙」と呼ばれたという。のち役行者が羽黒山に来て蜂子皇子の法を継いだという。この蜂子皇子の苦行が発展していき羽黒山古修験道になったという。さらに平安期以降は神仏習合で真言宗となり、江戸時代には天台宗に改め、明治に入り神仏分離がなされた。鶴岡から羽黒山に向って東に進むとその入口には東北第一の大きさを誇る大鳥居がそびえる。ちなみに大鳥居の南方には庭園で知られる玉川寺がある。大鳥居の先は木々の中を神路坂と称される坂道を登って宿坊が並ぶ手向の街に入っていく。すると左側に源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡を討つ際に戦勝祈願のため土肥実平に建てさせた(一一九三年)という羽黒山正善院黄金堂がある。一五九四年には酒田城主甘糟景継によって現在のお堂に建て替えられた。随神門からは階段を下りて一旦谷底に向かう。随神門は由利郡の矢島藩主が先祖供養の為に建てたものである。神橋を渡ると右側に須賀の滝が見える。そして左奥には杉並木の中に有名な国宝羽黒山五重塔がそびえ立っている。五重塔は承平年間に平将門によって建立されたと伝えられる。長慶天皇の時代に再建され、慶長十三年に最上義光によって修造されたという。この先は一の坂、二の坂、三の坂と急坂が続く。この羽黒山の石段は全部で二四四六段もあるという。途中、三の坂手前から右の道に入っていくと南谷別院跡に至る。南谷の別院は羽黒山中興の祖とされる別当天宥が建てたとされる。のちに松尾芭蕉が羽黒山を訪れて南谷の別院に宿泊し、句を残したという。現在の南谷には建物は無く、芭蕉句碑のほか礎石と天然記念物南谷霞桜が残る。

「有難や雪をかほらす南谷」

また芭蕉は羽黒山を次のように詠んだ。

「涼しさやほの三日月の羽黒山」

三の坂を上りきると頂上部に到達する。左側に羽黒山の開祖、蜂子皇子を祀る蜂子社がある。右側の道の奥には蜂子皇子の御墓所もある。御墓所から本宮に向かう途中に天宥社がある。これは羽黒山中興の祖とされる別当の天宥を祀った社である。羽黒山別当職はかつて藤島の土佐林氏が持っていたが大宝寺(鶴岡)の武藤氏が土佐林氏を降すと武藤氏が別当を継いだ。戦国時代、武藤義氏は弟の武藤義興を藤島城主にして羽黒山別当職を継がせた。だが義氏が最上義光に内通した家臣に討たれると義興が武藤氏を継いだため、別当職は甥の羽黒山光明院主、慶俊に譲られた。ところが庄内が上杉景勝の領地となり家臣の直江兼続が庄内支配に乗り出すと佐野清順が羽黒山主として一山を支配し、別当の慶俊は追放された。さらに一六〇〇年関ヶ原の戦いで上杉家の庄内支配が終わると今度は清順が追放された。そして最上義光の庄内支配が始まると最上義親の妻の兄、宝前院宥源が別当となり以後は宥俊、天宥と宝前院の系統に別当職が受け継がれた。天宥は一六三四年に別当職につき、黒衣の宰相天海に師事して羽黒山の天台宗への改宗を行い、羽黒山の改革や整備に尽力した。晩年は反対派の讒言で伊豆新島に流されて八十二歳で入寂したという。参集殿の前には一六一八年に最上家として最後の山形城主である最上家信が寄進したという鐘楼がある。出羽三山神社本宮の向いには御手洗池という池があるが古鏡が多数見つかったので鏡池と称される。五百面以上の鏡が見つかっており、平安鎌倉期の信仰によるものと考えられる。羽黒の龍神、九頭龍王が棲むとも伝えられる。出羽三山神社本宮は積雪期に登拝できないという理由で、もともと羽黒山に祀られた出羽神社に月山神社と湯殿山神社が合わせて祭られた三神合祭殿である。本来は別々の神社であるが社務所は羽黒山の麓にあり、こちらで三山の一切の事務を行っている。だが歴史的に見れば羽黒山と湯殿山が対立することもしばしば見られ、江戸時代には天宥以来天台宗に改宗した羽黒山に対して湯殿山別当たる真言宗の大日寺、本道寺、大日坊、注連寺は湯殿山開山を弘法大師によるものと主張したり、祭祀の分離を図ったりしている。また出羽三山として並び称されるが、かつては羽黒山、月山、葉山で三山で場合によっては鳥海山を入れたこともあった。また湯殿山はもともと出羽三山の「奥の院」的な性格だったともいわれ長い歴史の間に出羽三山も随分様変わりしたことがうかがえる。