藤島城

藤島城址の碑藤島城の水堀

(写真左:藤島城址の碑)(写真右:藤島城の水堀)

藤島城は和銅年間に出羽国府が置かれた頃の国府の府城とされ、出羽守や鎮守府将軍の居城であったという。葉室光顕などの国司が居城し、1351年には南朝方の北畠顕信が守永親王を奉じて挙兵し、南朝方の有力な城であった。周辺には平形などの楯を配して平城ながらも堅固に守りを固めていた。戦国時代には羽黒山別当の土佐林氏の居城で土佐林禅棟の時代に上杉謙信との繋がりで勢力を伸ばした。武藤(大宝寺)氏に攻められて土佐林氏が没落すると羽黒山別当で丸岡城主だった丸岡兵庫(武藤義興)が城主となる。武藤義興は後に兄義氏の跡を継いで尾浦城主となるが最上義光と手を組んだ酒田の東禅寺筑前守に滅ぼされた。太閤検地の際には金右馬允が一揆を起こして藤島城に籠城。鎮圧に当たった上杉景勝の重臣で名将・名宰相として名高い直江山城守兼続も藤島城の堅固さに手を焼き、ついに武力では落とせなかったという。上杉家統治下では木戸玄斎が城主。関ヶ原後の最上家統治下では新関因幡守久正が城主を務めた。新関因幡守は1607年この地に用水路「因幡堰」を開削して庄内平野を潤そうとした。しかし1622年主家である最上家が改易され新関因幡守も藤島城を去る。藤島城も廃城となった。因幡堰が完成したのは1689年のことであった。

藤島城の説明図

(写真:藤島城の説明図)