千歳山萬松寺

大正天皇が御手植えになったという「二代目阿古耶の松」。千歳山萬松寺の山門。山形開城の祖である斯波兼頼が建立した山形城大手門だったが、兼頼の子孫、最上義光が山形城を改築する際に千歳山萬松寺に寄進された。

(写真左:大正天皇が御手植えになったという「二代目阿古耶の松」。)

(写真右:千歳山萬松寺の山門。山形開城の祖である斯波兼頼が建立した山形城大手門だったが、兼頼の子孫、最上義光が山形城を改築する際に千歳山萬松寺に寄進された。)

山形市東部、山形県庁の南に千歳山という山がある。ここには阿古耶姫の伝説が残されている。藤原鎌足の曾孫に信夫郡(福島県福島市付近)の郡司である藤原中納言豊充という者がいた。豊充には阿古耶姫という大変に美しい娘がいた。ある春の夜に阿古耶姫が独り琴を弾いていると何処からともなく笛の音が聞こえ、見上げると美しい若者が立っていた。若者は名取左衛門太郎と名乗り、二人は恋に落ちて逢瀬を重ねるようになった。ある夜、左衛門太郎は自分の正体が出羽国千歳山の老松の精であり、今度名取川の橋に架けられるために切り倒されることを打ち明けて姫に別れを告げた。松は切っても切っても翌朝には切り口が元に戻り、なかなか切り倒されなかったが、おがくずが無くなっているのに気付いた者がおがくずを燃やすようになると松の切り口は塞がらなくなり、ついに千歳山の松は切り倒されてしまった。だが今度は松を運ぼうとしても松がさっぱり動かない。そこへ阿古耶姫がやってきて切り倒された松を見て嘆き悲しみ、松に手をかけると松が初めて動き出した。松が峠まで運ばれると老松の精が阿古耶姫に自分の供養をしてくれるように囁いた。ここからささやき峠、さらに笹谷峠と呼ばれるようになったという。こうして千歳山の松は名取川の橋になった。残された阿古耶姫は千歳山に阿古耶の松を植え、傍らに庵を結び左衛門太郎の霊を慰め続け、そこで生涯を終えたという。萬松寺はこの阿古耶姫の庵が始まりだとされる。
「陸奥の 阿古耶の松の 木がくれて 出でたる月の 出でやらぬかな」
その後、一条天皇の御世に歌会の席で口論し、天皇の怒りに触れた藤原左近衛中将実方が「陸奥の歌枕を探して来い」という命を受けて奥州へ下向したが、名取郡笠島の道祖神の前で下馬を拒んで先へ進んだところ落馬して死ぬことになった。実方の娘十六夜姫は父の後を追って奥州に来たが、父が死んで千歳山に葬られたのを知り、千歳山までやってきて川の水面に映る自分のやつれ衰えた容貌を見て「いかんせん 映る姿は 九十九髪 我が面影は 恥かしの川」と詠み、山形市内を流れるその川を「恥川」というようになった。阿古耶姫と実方中将、十六夜姫の墓は萬松寺の同じ場所に並んでいる。

阿古耶姫が千歳山に庵を結んだ後、この地に行基が萬松寺を開山し、さらに後の世に慈覚大師が開創したと伝えられるが、曹洞宗の瑩山禅師の孫弟子清巌良浄が萬松寺を復興して曹洞宗になったという。萬松寺の山門は山形開城の祖である斯波兼頼が延文年間に建てた山形城大手門(南門)だったが、兼頼の子孫、最上義光が天正年間に山形城を石垣の城に改築する際に千歳山萬松寺に寄進された。なお山門の額は上杉鷹山の師、細井平洲の筆によるものという。

千歳山萬松寺山門の額。上杉鷹山の師、細井平洲の筆によるものという。

(写真:千歳山萬松寺山門の額。上杉鷹山の師、細井平洲の筆によるものという。)