戊辰戦争三本松戦跡

戊辰戦争三本松戦跡の碑。仙台藩第六大隊長の梁川播磨頼親はこの地で桂太郎率いる新政府軍に敗れて戦死した。仙台藩士戊辰戦歿碑。仙台藩兵戦死者が葬られる。

(写真左:戊辰戦争三本松戦跡の碑。仙台藩第六大隊長の梁川播磨頼親はこの地で桂太郎率いる新政府軍に敗れて戦死した。)

(写真右:仙台藩士戊辰戦歿碑。仙台藩兵戦死者が葬られる。)

金山の三本松あたりは戊辰戦争の際、新政府軍と奥羽越列藩同盟軍の激しい戦いがあった。東北の諸藩は奥羽越列藩同盟を組織し、薩長を中心とする新政府軍に抵抗した。そんな中でも最上地方を治める新庄藩は新政府軍についたが、周囲は敵に囲まれ危うい状況であった。果して慶応四年(1868年)五月末、同盟軍主力の仙台藩兵五百余名が新庄藩領の金山に進軍してきた。この時点で奥羽鎮撫総督九条道孝率いる新政府軍の主力は秋田にあり、七月十一日になってようやく長州の桂太郎率いる新政府軍が北の森合峠から、薩摩の兵が東の有屋峠から金山に攻め込み、両面から攻撃された仙台藩兵は混乱のうちに潰滅。仙台藩第六大隊長の梁川播磨頼親は金山の十日町で重傷を負い、森合峠麓の三本松まで逃れたがこの地で薩長の兵に襲撃されて壮烈な戦死を遂げた。時に三十七歳。仙台藩は梁川播磨以下三十三名の戦死者を出した。だが新政府軍のこの勝利も一時のことで七月十四日には庄内藩の同盟軍が新庄城を攻め落とすのである。梁川播磨らが戦死した場所は「戊辰戦争三本松戦跡」として戊辰戦争の悲劇を後世に伝えている。無念の戦死を遂げた梁川播磨は文武両道の武士で歌道の嗜みがあった。

「積む雪に 通路たへて おのずから うき世をへだつ 冬の山里」

これら同盟軍の仙台藩兵戦死者が葬られた場所に明治二十五年、旧仙台藩有志が追悼碑として「仙台藩士戊辰戦歿碑」を建てている。