鮎貝城

鮎貝八幡宮の鳥居。この階段を登ると鮎貝城跡。鮎貝城跡に建つ鮎貝八幡宮。

(写真左:鮎貝八幡宮の鳥居。この階段を登ると鮎貝城跡。)(写真右:鮎貝城跡に建つ鮎貝八幡宮。)

永久年間、藤原氏一族の藤原安親が平泉の奥州藤原氏を頼って京都から下向し、荘官となって犬川以北の置賜地方を支配するようになった。1396年安親の子孫は伊達家に仕え、上座の格を以って鮎貝に築城し、鮎貝氏を称するようになった。当時鮎貝は置賜地方では高畠・米沢に次いで城下町として繁栄していたという。1584年鮎貝宗重は伊達輝宗の隠居先舘山城の修築が終わるまで輝宗を自らの館に迎えたという。だが翌年輝宗は畠山義継に拉致されて非業の死を遂げる。1587年宗重の長男鮎貝宗信は最上義光に内通して伊達政宗に謀反した。宗重は翻意を促したが聞き入れられず鮎貝城を逃れて政宗に報告。鮎貝宗信は政宗に討伐されて最上義光の下に逃亡した。鮎貝氏は次男が継承した。伊達政宗の岩出山転封後、鮎貝は蒲生氏、次いで上杉氏に支配された。上杉氏は鮎貝を重要な支城として中条、下条、春日、本庄といった重臣を城代として置いた。寛文以降は本庄氏が城代を世襲し、明治維新に至る。現在、城跡には鮎貝八幡宮が建っているが、これは1059年源頼義、源義家父子が戦勝祈願した際、敵を滅ぼし、勝利したので八幡宮を創建したものという。当初は別の場所にあり、1898年鮎貝城跡に遷宮した。