朝日軍道

草岡の朝日葉山登山口。朝日軍道は草岡から葉山、朝日岳を越えて庄内に抜けた。

(写真:草岡の朝日葉山登山口。朝日軍道は草岡から葉山、朝日岳を越えて庄内に抜けた。)

1598年上杉景勝は越後から会津に領地替えとなり、置賜と庄内も領有した。しかし庄内は他の領地から孤立し、米沢から庄内に向かうには最上義光が領する山形か堀氏が入った越後を経由するしかなかった。このため上杉家の米沢城主直江兼続は長井の草岡から葉山や朝日岳を越えて庄内に抜ける「朝日軍道」を整備して越後や山形を経由せずに米沢から庄内に輸送できる態勢を整えた。しかし山形城主最上義光はこの山岳道路整備を修験者を抱える大沼浮島稲荷からの報告で察知し、上杉に謀反の動きありと徳川家康に報告した。豊臣秀吉没後、実権を握った徳川家康はこれらの街道整備や神指城築城などを詰問し、上杉家に圧力をかけた。これに対して直江兼続が家康に送った返事が「直江状」と呼ばれるものである。この返書に怒った家康は会津征伐を行い上杉家を滅ぼそうとするが、その隙に石田三成が決起して関ヶ原の戦いにつながった。1600年9月山形でもこれに伴い「慶長出羽合戦」が始まり直江兼続が最上義光を攻めた。しかし石田三成率いる西軍は関ヶ原で敗北し、兼続も米沢に撤退した。庄内の上杉軍は孤立しながらも最上義光に抵抗を続けたが1601年4月ついに城を明け渡し、雪の朝日軍道を越えて米沢に帰還したという。これ以後、庄内は最上義光の領地となったため朝日軍道が使われることはなく消滅した。