荒砥城

荒砥城跡に建つ八乙女八幡宮。

(写真:荒砥城跡に建つ八乙女八幡宮。)

荒砥城址には八乙女八幡宮が建っている。後三年の役の際、源義家がこの地に京都岩清水八幡宮を勧請し、八人の乙女の舞を奉納したことから八乙女丘、八乙女八幡宮と称するようになった。奥州藤原氏の時代、この丘に荒川次郎が築城し、八乙女城とも呼ばれた。境内に荒砥城主の桑島和泉守が庭先に植えた「八乙女種まき桜」がある。慶長三年(1598年)上杉景勝が領主となると対最上の最前線として重臣泉沢久秀が城主となる。久秀は上田衆の出で兼続とは旧知。尾崎氏の娘を妻とし、母親が尾崎氏の出である兼続とは遠戚でもある。蔵奉行、奏者などを務めた文官で荒砥城代と若松所司代を兼務した。慶長出羽合戦において荒砥城は最上攻めの拠点となり、また長谷堂城の戦いから撤退した直江兼続が荒砥城に帰還している。慶長六年には兼続配下与板衆筆頭の志田修理義秀が城代となる。江戸時代は鮎貝城同様、御役屋が置かれて御役屋将が在番した。周辺には空堀跡の一部が残り、蛇井戸に祈ると水が溢れて堀を満たし、敵の人馬を防いだという伝説も残る。