安達峰一郎生家

外交官として、国際司法裁判所所長として活躍した安達峰一郎博士の生家。

(写真:外交官として、国際司法裁判所所長として活躍した安達峰一郎博士の生家。)

安達峰一郎博士は明治二年山辺町西高楯に生まれ、東京帝国大学法科大学を卒業して外務省に入り、ポーツマス講和会議の全権随員として小村寿太郎を補佐した。その後、外交官として大いに活躍し、国際連盟第二回総会以降は日本代表を務めた。国連事務次長新渡戸稲造に「安達の舌は国宝だ」とまで言わしめた。不戦条約の締結や対独賠償問題の解決にも尽力し、昭和五年には常設国際司法裁判所裁判官に選ばれ、翌年所長となった。以後は常設国際司法裁判所の権威を高め、国際平和の確立に貢献しようと生涯を捧げた。昭和九年アムステルダムで永眠。オランダは国葬の礼で博士を送った。