旧鐙屋

酒田三十六人衆の町年寄だった「鐙屋」。酒田三十六人衆は港町酒田を作り合議で酒田を統治した。写真は酒田三十六人衆宅絵図。

(写真左:酒田三十六人衆の町年寄だった「鐙屋」。)

(写真右:酒田三十六人衆は港町酒田を作り合議で酒田を統治した。写真は酒田三十六人衆宅絵図。)

鐙屋は町年寄役を務め、酒田三十六人衆の筆頭にも数えられた商家で代々鐙屋惣左衛門を名乗った。井原西鶴の『日本永代蔵』にも「諸国の客を引請け、北の国一番の米の買い入れ、惣左衛門といふ名を知らざるはなし」と豪商ぶりが記されている。鐙屋は姓を池田といい、慶長十三年(1608年)に領主である最上義光から鐙屋の称号を与えられて以後、鐙屋惣左衛門を名乗るようになった。酒田三十六人衆とは最初から港町酒田を形成し発展させてきた三十六人を指す。時代は遥かに遡り、奥州藤原氏が源頼朝によって滅ぼされた際に藤原秀衡の妻、泉の方を護って酒田に逃れた三十六名の侍が廻船問屋を営むようになったのが始まりとされる。当時の酒田は最上川の南岸、宮ノ浦にあったが1521年頃に現在の最上川北岸に移転した。そして本町通りを中心に酒田を港町として発展させていった。酒田三十六人衆は堺のように自治組織を作り町政は三十六人衆の合議制で進められた。鐙屋の他にも加賀屋二木家、上林家などが三十六人衆のうち町年寄役として活躍している