明治33年9月

屋代村深沼 武田作右衛門 次男・慶輔、多勢丸多当主・
吉郎次と女婿且つ養子縁組みし、長女・ゑいと結婚。
将来の丸中の基礎が出来る。
 明治43年1月


丸中初代・多勢慶輔 丸多・多勢吉郎次より分家独立。
池黒1430番地に居を構える。江戸時代からの豪農、
中堀佐藤家より茅葺き家屋を譲り受けたとのこと。
分家当初は、丸多製糸の工場長として2年間を過ごした。
 明治44年5月

多勢丸多製糸工場より独立し、多勢丸中製糸工場を開設。
(48釜、約60名)
以降、年毎に規模を拡大していくことに。
 大正12年〜


大正年間、製糸業隆盛を極め、その利益にて5年をかけて
現在の家屋を新築せり、総工費20万円とか。
(現在の価格で約20億円前後か)
 ※家屋の一部、2階洋間の写真はこちら 
 ※平成28年、登録有形文化財に登録されました。
 大正15年

南陽市史に見る宮内町割図 
当社の他、多勢丸多、多勢丸一、多勢金上の名が見てとれ
ます。
 昭和 2年

釜数180、社員260名となる。
当時は品質の証・当社レッテル(ラベル)を貼って
国内外に出荷していました 
 昭和15年6月
二代目賢次を中心に社業隆盛を極めるも、賢次急逝。
初代慶輔現役復帰せり。
 昭和18年2月 初代慶輔妻・ゑい没
 昭和19年
太平洋戦争のため、国策により陸軍赤羽被服廠の疎開倉庫に
指定され工場閉鎖廃業。家賃月坪一円の記録あり。
 昭和22年8月 初代慶輔没。
 昭和23年 秋

二代目賢次妻・とし、資本金50万円、社員20名、
10釜にて 株式会社 多勢丸中製糸工場として再開。
朝鮮動乱特需で活況を呈す。
 昭和26年7月 現在地(現事務所玄関周辺)に移転、20釜に増設。
 昭和27年以降



当時最先端の自動操糸機を導入し合理化を図ろうとするも、
目覚しく発展した化学繊維に押されて製糸業は次第に衰退の
兆しが見えてきた。
また、養蚕農家の果樹転作が進み、原料となる繭の確保すら
困難になってきた。
 
 この間、日本経済は神武景気(S30〜33年)、岩戸景気(S33〜37年)と
 二度の好況期があったが、残念ながら製糸業はその恩恵を受けることなく推移した。
 昭和35年9月
三代目賢二郎、製糸工場の中に電器部を創設。
鳥小屋を改装し、コンデンサー部品の製造を開始する。
 
 昭和38年4月〜

製糸業の斜陽化と自己資金力の極端な脆弱さから、
株式会社 多勢丸中製糸工場を自主廃業し、新たに 
株式会社 多勢丸中製作所 を設立し、現在に至る。

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株式会社 多勢丸中製作所          設立以前の歴史

平成3年10月21日

 著述  多勢賢二郎