善悪の報いはあるの?

              曹洞宗「修証儀」第1章より

            善悪の報いには三つのきまりがある。
          一つには「順現報受」、二つには「順次生受」、三つには「順後次受」 これを三時という。
         仏道を修するには、まず最初にこの三時の善悪の業の法則を知っておかなければならない。
         そうしなければ、多くの誤ちを犯したり、邪見に堕ちてしまったりしてしまうことになる。
         そして、ただ邪見に堕ちるだけでなくて、悪道に堕ちて長期の苦を受けることになる。

          今の我が身が二つも三つもある訳でないことを自覚し、たった一つしかないこの我が身が、
         ただ徒
(いたずら)に、邪見に堕ちて悪道に走る身に堕ちいらないようにしなければならない。
          悪を行ないながら悪ではないと思ったり、悪の報いなどあるはずがないと思ったりしても、
         その悪の報いからは逃れることはできないのである。 …よく自覚すべし。
          そして、こういうことに気が付かない人間がいるとすれば、それは実に惜しいことである。
                                                  
(修証儀第1章より抜粋)

 善悪の報いには、次のどれかに当てはまる三つのきまりがある。これを三時という。

    一つには、「順現報受」(じゅんげんほうじゅ) … 現世において報いがある場合。
    二つには、「順次生受」(じゅんじしょうじゅ)  … 来世において報いがある場合。
    三つには、「順後次受」(じゅんごじじゅ)    … 第三世において報いがある場合。

 これを三時という。

 つまり。善を行ったことや悪を行ったことに対するその報いについては、必ずこの三つの決まりのいずれかに当てはまるという。
 まず第一には、この世で報いが現れる決まりである。それはその直後に現れるのか、何年後かに現れるのかは分からないが、
とにかく生きている間に、その報いにあう場合である。
 二つ目には、生きている間にはその報いが無いが、死んであの世に行ってからその報いが現われる場合である。
 そして三つ目には、この世でもあの世でもその報いが無いが、その次の世で報いが現れる場合である。

 日々の時々刻々の小さな善や悪でも、積み重なることによって長い間には大きな力となって、その人に大きな幸福や不幸の
結果をもたらすものである。
 我々の態度は、常に良い心がけをもち、他人の幸福を願い、周囲に好意を示し、言語動作もすべて好ましい奥ゆかしいものに
なっているだろうか? 世の中をごまかし人知れず悪事をしても、そのごまかしや悪事は必ずその人の業となって蓄積されていく。
平素の心がけが大切な所以である。
                   (間違っていることに気付いたならば、そこで悔い改めるべし。…心を入れかえれば罪が消えることもある。

 そして、この人格は日常の善悪の経験が加わることによって、人格も上下左右へと変容していく。
また、日常の心がけを善くするか悪くするかで、その人の態度や言葉つき、人相までにも自然に現われてくるようになるものである。
そして、
我々自身の心がけや努力の如何によって、我々の人格や運命等これを変化させうるというのが仏教の業説の立場である。

               (―曹洞宗宗務庁発行;「修証儀講話」より―)

この話は、曹洞宗の「修証儀」(しゅしょうぎ)第1章に出てきます。

「修証儀」(しゅしょうぎ)とは;曹洞宗の開祖道元禅師の著した「正法眼蔵」の中の文句を主として集め、

明治時代にまとめられた聖典。現代語に訳されてあり、そう難解ではない。曹洞宗の信仰実践の書でもあり、

人間としての生きる道が説いてある。宗派や国境を越えて人間として合い通じるものがあると思う。