天国 と 地獄 これは、法話図書館「ちょっといい話」―仏教関係リンク集― でお馴染みの、佐藤俊明師著 「二つの月」(大盛堂発行)からの話です。 ある人が、地獄を見てきた時はちょうど昼飯時でした。 …という話から始まるのですが。 食堂に入ってみますと、驚いたことに、地獄とはいえテーブルには中華料理のように丼や鉢が 並び、どれにも山海の珍味が山のように盛られておりました。 すばらしいご馳走です。 さて、テーブルの両側に座っている亡者たちを見るとこれはいかに、みんな骨と皮ばかりに やせこけ、目は窪み真っ青な顔をしておりました。 変だなあ、こんなにご馳走があるのに、なんでこんなにやせ衰えガツガツしているのだろう と不思議に思ってよく見ると、やはり地獄。 左手が椅子にしっかりとくくりつけてある。 そして右手にはスプーンがくくりつけてある。しかも1m以上もあるものを…。 なるほど、遠くにあるご馳走も、これですくい上げることができるのだナと、感心しました。 やがて食事の合図の鐘が鳴り、食事が始まりましたが、長いスプーンで物をすくいあげる まではよかったが、いざそれを口に運ぼうとすると、スプーンが長くて上手く口に入らない。 どうしても自分の口にご馳走が入らない。 …いやあ、それは見るに耐えない光景です。 目の前にたくさんご馳走がありながら口に入れられない。それは、まさに地獄の苦しみです。 あまりにもひどい光景を目にしたので、今度は口直しにと思い天国に行ってみたそうです。 そしたらやはり昼食時で、しかも何と地獄と同じように左手は椅子にしばられ、右手には 1m以上の長さのスプーンがくくりつけられていたそうです。 (たとえ話ですから…) しかし、不思議なことにみんな血色が良くニコニコとしていたそうです。 どうしてだろうと思っていると、鐘の合図で食事が始まりました。 … いやあ、感心しましたなあ! 分かりましたか? さすが天国の住人。自分の口に運ぶには長すぎるスプーンも、向かい に座っている人の口に運ぶにはちょうど良い長さ。 相手にご馳走をあげているんです。 …お互いに。 物も使いようなんですねえ。 いや、物事も考えようなんですねえ。 仕組みは同じであっても、そこに住む人の心構えや生活態度如何によっては、天国にもなり 地獄にもなるんですねえ。何でも自分だけ自分さえよければ…ということから由来した地獄。 個我の執着によって、取る・奪うをもって、かえってもがき苦しんでいるのが地獄。 与え施し恵む心をもって、お互いが生かされる無我を基調とした福祉社会、これが天国。 この話は、別項の「自未得度先度他」の話につながるのですが。 自分も大切かもしれないが、それと同様に他人をも大切にする心を持たなければなりません。 それにしても、現実に人から親切にされても自分はその人に親切にしない人間。与えられた 恩に感謝の気持ちも現さず、かえってその恩に仇で返すような人間を私も結構見てきました。 いるんですよねえ、こういう人間が。(こういう人を昔から鬼と呼んできたのでしょうか!) 同じ人生でも実に不公平な気がしますね。片やもらってばかりでいい思いして片や損ばかり。 しかし、これには続きがあるのです。それは、別項の「善悪の報いはあるの?」に続きます。 また「人を呪わば穴二つ」の諺。…つまり、呪えば 相手の穴とそして呪った自分自身にも 穴が用意されているということです。自分だけいい思いという訳にはいかないんだよという…。 善悪の報いは、 … いつかは自分自身に返ってくるものなのかもしれません。 また、本山での修行中に教えられた言葉に「損は悟り、得は迷い」というのがありましたが…。 |