本当にめでたいもの
                
                ー澤木興道老師著「禅談」よりー

        室町時代の禅僧一休禅師は、お正月に杖の先にどくろをつけて
         「元日や冥土の旅の一里塚、目出度くもあり目出度くもなし」
        と言いながら、お正月の街を歩いてまわったという。

 一体、人間の幸福とはどんなことか。目出度いということはどんな事か。
ちょっとの要領で、どんなに目出度いことでも悲しくなり、どんなに悲しいことでも目出度くなる。
道元禅師の「正法眼蔵」有時の巻に「目出度いときも時なり、悲しいときも時なり、美味いも時、
味無いも時、嬉しいも時、暑いも時、寒いも時、嗚呼時なり。」と書いてある。

 昔、エライ御幣担ぎがおって、大晦日の晩に家の人を追いまわして、元旦早々掃除をしては
福の神が出て行くから、今晩のうちに掃除せよと夜中まで大騒ぎをした。ようやくそれが済み、
宝船を出して若水をとって、さあ目出度いことを言えよ、縁起の悪いことなんぞ言うんじゃないぞ
と、拍手をうって神様を拝んでひょいと隅を見ると黒い変な物が落ちている。ちょいとつまむと、
それは片付け忘れた雑巾だった。「うわあ元旦早々雑巾をつかんだ。こいつは縁起が悪い。
屠蘇も止めだ、年賀も止めだ。目出度いことはあらへん。」と泣き顔をした。
 そこへ通りがかった坊さんが、「雑巾をつかんだならそれは目出度い。」
と言ったそうだ。 そして、ちょうどいい句ができたと、
 「雑巾を当て字に書けば蔵と金、あちら福福(拭く拭く)こちら福福(拭く拭く)」と言えば、
 「ウワッこれは目出度い。さあ酒一升持ってこい。これは目出度いことになった。」と。
それから一杯祝ったという。
 当て字で書いたら目出度くなった。妙な話ですね。
 縁起に振り回されたり、都合が良かったり悪かったりしてまごついているのが凡夫である。
そこを決定的に目出度くなるのが仏教の「安心」というものである。

    人間の一番大きな福と徳とは、道心と智慧である。

 六祖大師の弟子の、永嘉大師の書かれた「證道歌」の中に、こんな言葉があります。
 「二乗は精進して道心なく、外道は聡明にして智慧なし。」

  二乗…知識ある人  道心…不幸を封じ込んで絶対幸福になること。またその心構え。福。
  外道…諸々の邪見ある人。  智慧…仏の心。徳ともいう。


 先日、私の勤務する小学校の小学生相手に「知恵」と「智慧」の話をしました。
『知恵』とは、生きていく上での学問・知識。本で読んだ事、人から聞いた事、役に立つ知識等。
『智慧』とは、仏様の心のこと。
 「例えば、私がここで居眠りをしていたらみなさんどう思いますか。授業中に居眠りをしている
人がいたらどう思いますか。」と尋ねました。みなさんならどう思いますか。
『知恵』の世界だと、「教頭先生のくせに居眠りなんてとんでもない」「不謹慎だ」となるでしょう。
ところが『智慧』の眼でみると、「ああ疲れているんだろうか。」「家庭で何か大変なことでもあった
のかなあ。」「何か助けてあげられることはないかなあ。」等というふうな見方もできます。

 今までは『知恵』の世界ばかりが横行して、現在ではそれが反省されている世の中です。
学問一辺倒で、物質や知識は豊かになってはいるが、心が併せて育っていないと…。

 「学問」にしたって、何のためにするの? 昔の人は世の中を良くする目的で色々な学問をして
きた訳ですが、今はいい学校に入りいい仕事に就くための手段にしている人が多いと思います。
利害や自分のためだけに勉強しようとするため,大学という最高学府を出てはいても,それに見合
った心を兼ね備えている人ばかりではない現代。おまけに競争で人を蹴落としてまで自分だけが
生き残る術を知らず知らずのうちに、もし学んでいるとすれば、(末)恐ろしいことだと思います。
だから、現代は学歴で人を評価できない世の中になっているようです。
 昔の藩校では「藩や民のために」色々な知識を得ようとして学問していたはずです。
その伝統ある藩校ですら建学の精神を忘れてしまったのか?流行に流されてしまったのか?
今では大学進学の予備校化していると陰口をたたかれる始末です。大学進学率の方が大事だ!?

 『知恵』だけの世界から『智慧』も得ていくことが現代では特に必要になっていると思います。

 若い坊さんの中にも、法式や作法に詳しく仲間から一目も二目もおかれている人がいたりする
のですが、その中には挨拶すらできなかったりするものがいますから苦笑してしまいます。
ところが法式に詳しい人がくると何故かしっかりと挨拶したりして…。(お宅の本尊様は行持軌範?)
 失礼の無いようにするのが法式や作法で、こういう人から法要される仏様は寒気をおぼえて
おられることと思います。やはり『知恵』だけでなく『智慧』も備えていないと本物とはいえません。