亀を助けた話

 中国の西晋(せいしん)末の時代(300年頃)の話。 会稽(かいけい)山陰(さんいん)孔敬康(こうけいこう)という人があった。
 
同じ郡に張偉康(ちょういこう)丁世康(ちょうせいこう)といって、康の字のつく優れた3人がいて、会稽の三康として有名であった。
  孔敬康(こうけいこう)
は、王室に召され、後に華軼(かいつ)を討伐した功績により、余不亭(よふてい)(こう)に封ぜられた。

 この孔敬康(こうけいこう)についてだが、若い頃の旅行中に余不亭(よふてい)を通過したことがあった。
その時、子どもたちが路上で一匹の亀をかごに入れて、これをおもちゃにしていじめていた。
これを見た孔敬康(こうけいこう)亀が可愛そうになりそれを買い取って水の中に放してやった。
亀は中流にあって首を左に向けること数回、なつかしげに孔敬康(こうけいこう)を振り返るのであった。

後に孔敬康(こうけいこう)余不亭(よふてい)(こう)になってから、
その候印を鋳造させようとしたところが、印のつまみに造ってある亀が左に傾いている。
印工は失敗したものと考えて改めて()なおしたけれども、やはり亀の頭は左に向かっている。
三回鋳なおしても同じようになったので、印工は不思議に思ってこの旨を孔敬康(こうけいこう)に告げた。

彼は、その訳が分かって、首が傾いたままの印を使用したといわれる。
つまり、彼が余不亭(よふてい)(こう)に封ぜられたのは、亀の報恩によるというのである。

               (―曹洞宗宗務庁発行;「修証儀講話」より―)

 

この話は、曹洞宗の「修証儀」(しゅしょうぎ)第4章・第5章に出てきます。

「修証儀」(しゅしょうぎ)とは;曹洞宗の開祖道元禅師の著した「正法眼蔵」の中の文句を主として集め、

明治時代にまとめられた聖典。現代語に訳されてあり、そう難解ではない。曹洞宗の信仰実践の書でもあり、

人間としての生きる道が説いてある。宗派や国境を越えて人間として合い通じるものがあると思う。


 

  日本でも「浦島伝説」は、古くは日本書紀や万葉集に、浦島太郎の話は室町時代の御伽草子に見える。

いずれの話においても共通することは、「心から善行を行った。」ということと、
「それは、見返りや出世等を期待して行ったことではない。」ということである。

本当に亀が恩返しをしてくれるかどうかは別として、善行のまねをしたり見返りを期待したりせず、
他人には誠心誠意心から哀れに思い親切にしてあげることが大事なのである。
そして、雀や亀が恩返しをする話から、ましてや人間ならなおさら様々な事に対しての恩を感じ、
それに対しての感謝の気持ちを持つことが大事であるとの教えである。

謙虚さの少ない人やプライドの高い人などにとって、これは実に辛い修行になるかもしれませんね。

 様々な事件が新聞をにぎわす現代社会…。カッとなると見境いが無くなり、
自分自身だけが大事なために(他人の幸せなんかどうでもよく)、恩も何もかも忘れてしまい、
かえって、恩を仇で返したりするような人はいませんか?  ・・・ 現代は、これが「普通」になっていますよね!?

 そのような、自分自身がたいした偉い気になって思い上がった人間は、雀や亀から軽蔑されているかも…。

 … 平和な世の中を破壊するな!って。 (ちょっと飛躍し過ぎっ!!?)