「自未得度先度他」の話
「自未得度先度他」の心とは「自らは未だ得ていなくても、まず先に他に得させてあげる」という
利他救済の心のことである。菩提心(最高の悟りの境地)を起こすということで、発菩提心ともいう。
己を空しくしなければできないことである。
子どもたち相手にだと、よくこんな例え話をします。
ある時、友達何人かと山の中にいたら大きな熊に出会いました。その熊が皆さんに襲いかかってきました。
熊が追いかけてきますので、みんなは必死で逃げました。そしたら深い谷川に一本の丸木橋がかかっている
所に来ました。谷は何百メートルもの深い谷で、丸木橋は人が一人ずつしかわたることはできません。
早くわたって向こうに逃げていけば助かるのです。さあ、あなたならどうしますか?
もし、この人たちがみんな、他人よりも自分の方が大事で、他人が何かをしようとすると邪魔をしたり、
足を引っ張ったりするような人たちばかりであればどうでしょう。
誰かが先にわたろうとすればその人の足を引っ張り、かき分けて、まず先に自分がわたろうとする。
そしたら、同じように考えている誰かが後ろから引っ張る。 そして自分自身も引っ張られてしまう。
… そうこうしているうちに、誰もわたることができず、しまいにはみんな熊に襲われてしまう。
ところが、自分も大事だけれども、それと同じように他人をも大事にする気持ちを持っていればどうで
しょうか?
渡ろうとする人を邪魔したりせず、また自分が渡るときにも邪魔をされず、スムーズにみんなが渡ること
ができるのではないでしょうか。
人々の争いや,諍いや,もめ事,そして戦争も、こういうような、他よりも自の方を最優先して
考えていることから起因しているとは思いませんか? 他を尊重せずに,ないがしろにしている…。
自分だけが大事なために、自分だけが話題の中心でいたいがために、策略を巡らし、邪魔になる者など、
他人をけ落としたり陥れたりして自分が生き残っている人間。(獣の世界だと弱肉強食は日常ですが。)
人間は確かに生物(動物)ですが、果たして「獣」のままでいいのでしょうか?
人間社会も弱肉強食の厳しい世界かもしれませんが、それを超越した心をも持っているのですから、ただの
獣のままではないはずです。学問とは、そういう心をも学ぶことを言います。試験のためだけではないです。
昔の人は、人や世の中を救うがために学問を修していた。それが今では、試験に勝ち残るために。人を
け落としてでも、自分だけが競争にうち勝つために勉強していませんか? 果たしてそれは学問ですか?
本当の目的を忘れていませんか? 自分を高めることは自分だけのことではなく、世のためにもなのです。
「自未得度先度他」の句は大乗涅槃経から来ています。曹洞宗開祖道元禅師は、この心を起こすは全人類の
模範的な行為であり、地位や年齢・性別などの外見にとらわれることなく、その心を学ぶべきである、…と。
男女を論じたりしてはいけない。(その当時…鎌倉時代) これ仏道極妙の法則であるとおっしゃっています。
(―曹洞宗宗務庁発行;「修証儀講話」より―)
この話は、曹洞宗の「修証儀」(しゅしょうぎ)第4章・第5章に出てきます。
「修証儀」(しゅしょうぎ)とは;曹洞宗の開祖道元禅師の著した「正法眼蔵」の中の文句を主として集め、
明治時代にまとめられた聖典。現代語に訳されており、そう難解ではない。 曹洞宗の信仰実践の書でもあり、
人間としての生きる道が説いてある。宗派や国境を越えて人間の生き方として合い通じるものがあると思う。
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