公教育 と 宗教教育


                                               平成21年10月3日
     
          教育基本法 第15条 をご紹介いたします。

 第15条 宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養 及び
   宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない。

 2  国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教
   教育その他宗教的活動をしてはならない。

 旧教育基本法では第9条(宗教教育)でしたが、平成18年に教育基本法が
改正され、条項の追加(「家庭教育」「幼児期の教育」「学校・家庭・地域住民等
の相互の連携教育」等)があり、新教育基本法では第15条になりました。
 なお、1項には「宗教に関する一般的な教養」の文言が追加されています。

 これまでは、よく2項の「宗教教育をしてはならない」のみが強調され知られて
きた感があります。また、これだけと思っている人が多かったように思われます。
 第1項の「教育上尊重されなければならない」の存在を知らなかった人も多い
と思われます。
 もちろん公教育においては、特定の一宗一派のみを教える偏った教育は施し
てはなりません。公教育はあくまでも中立な立場でなければならないものです。

 最近の教育の崩壊などのニュースを聞くにつれ、第1項ができない(しにくい)
公教育であったならば、「心の崩壊」につながるのもうなづけると思われます。
 「宗教教育」とは、特定の宗教の喧伝をしたり入信・勧誘的なことであり、中立
性を欠くような教育・指導のことだと考えます。「この宗派を信じなさい」とか…。
 しかし、そうでなく、例えば高僧や聖人君子の教えを持ち出したり紹介したり
することは、生徒指導をはじめ、人間教育上では大事なことかと思います。

 私自身、過去の教育研修において、指導主事や大学の先生から道元禅師の
正法眼蔵や修証義のお話をいただいたことがあります。なかなか秀逸な先生と
思いました。よくこのような専門的な経典まで知っているものだと驚かされました。
 道元禅師の教えには、「人間としての生きる道」が多く説かれてあって、仏教と
いうよりも哲学であり「道徳」の面でも示唆されるものがあります。永平寺の生活
にしてもしかり。教育者はこういう禅的生活にも造詣があるとよいと思います。

 ちなみに、普段使っている、知識・単位・挨拶・会釈・通達・玄関・我慢・不思議
人間・安心・観察・道具・差別・正直・出世・人事・世界・平等・無事・迷惑・過去・
未来・悪口…公教育の現場にも見られる言葉、これらは全て仏教語であります。
 仏教の教えなどは知らず知らずのうちにあるものです。お茶も僧侶が伝えたし。
 偉人の話でも、夏目漱石は文学者だからよし、福沢諭吉も教育者だからよし、
道元や良寛は宗教者だからだめ、ということをする教師が実際にいると思います。
 「病は気から」といいますが、了見の狭い気では教育問題もおきることでしょう。

 「宗教は絶対に学校の門から入れない」などという了見の狭いことでは、子ども
たちのお楽しみクリスマス会はだめだし、相撲も元々は神事だからだめということ
になります。こんなことは あまりにも目くじらを立てているほどのものではない、と
私は思いますし、仏教の僧侶の私もこれらを子どもたちと一緒にしてきました。
 座禅なども、心理学で治療に使われる「内観法」や「なんその法」を含んでいる
と思えば、心や身体を整え省みるよい機会や体験であるとも言えるでしょう。
 できれば、座禅の場合「1日が座禅の延長」だということを教え、生活習慣に
つなげ、折に触れ様々な場面で意識させることまで指導できれば・・・。
 私も、日常の学級指導などでは仏教の説話などを話していたものですが、しかし
出典や固有名詞をあまり出さずにしておりました。なぜならば、道元禅師は僧侶
=仏教=宗教教育ということで、にらむ人がいると憂慮してのことだからです。
 堂々とできる雰囲気がこれまで教育現場には薄かったと感じています。
 文学者や教育学者にも右翼や左翼はいることでしょう。中立な宗教家だって
いるでしょう。生死の問題に向き合ってきた宗教家、とりわけ道元禅師のような
禅僧からは、徳育面において現代教育界が得られることは多いと思います。

 今、子どもたちに「生きる力」を育成しようとするならば、「宗教に関する寛容の
態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上
尊重されなければならない」と思います。
 新学習指導要領には、「自らを律しつつ他人とともに協調し他人を思いやる心や
感動する心などの豊かな人間性」を育てるとありますが、道元禅師の自未得度
先度他の心(一口法話参照)や、キリスト様の 右のほほを打たれたら … の話でも
しっかりと他者を思いやる気持ちが説かれていることは 当たり前の話です。
道徳もしかり。食育も道元禅師から言わせれば、まだまだ食を通して心を育てる
施策までには至らず、栄養指導の域を脱せずにいる教育界であると思われます。
                                          (一口法話の五観の偈参照)
 これからは、「宗教」を目の敵のようにして神経をピリピリさせないで、様々な
教養を身につけておく くらいの気持ちの鷹揚さがあった方がいいように思います。

 ただし、「おかしな教育や指導をしないか」だけはしっかり観察・監視する必要は
あります。 … 間違った教えや 教祖様 などに傾倒しないように・・・。
 あくまでも教養のうちということで、深入りしないようにしなければなりません。

 どうも、教育改革などを見ると、表面の事象だけを捉え流行の体裁を整える事で対処している感の
ある教育界と現場。 表面のことだけ捉えていてはいけません。 基盤(芯)をきちんと整えないと・・・。


 蛇足ばかりですが、私は小学校教諭の免許は玉川大学の通信教育で取得
しました。夏季休業中にはスクーリングで大学に行って講義を受けるのですが、
そこでは朝のミサに出て讃美歌を歌ったりして、すがすがしい雰囲気で過ごせ
ました。常にどこからか歌声が聞こえてくる素敵な大学でした。創設者小原先生
の「全人教育」の教えが息づいていて、僧侶の私も心が洗われた大学でした。

 教育基本法の第1条「教育は人格の完成をめざし(中略)心身ともに健康な国民
の育成を期して行われなければならない」は、750年も前に道元禅師もめざして
いたものの一つだったのではないでしょうか。