平成16年 新年の挨拶
      住 職 挨 拶

                        昌伝庵32世 今成 良全
 謹んで平成16年の新年にあたり、御貴家様の万福多幸をお慶び申し上げます。

私事で恐縮ですが、81歳を迎えました。幼少時は「青瓢箪」と嘲られながら育った
私でしたが、
30歳代から糖尿病となり、現在も治療中です。しかし、「一病息災」を
認じて、有難く生かされております。


昭和天皇が留守中に、お住まいの庭の草を刈った侍従の入江相政に天皇は尋ねられた。
「どうして草を刈ったのかね?」

入江は、ほめられると思って、
「雑草が生い茂って参りましたので、一部お刈りしました。」

と答えた。すると天皇は、

「雑草という草はない。どんな植物でもみな名前があって、それぞれ自分の好きな場所
で生を営んでいる。人間の一方的な考え方で、これを雑草として決め付けてしまうのは
いけない。注意するように。」

と諭された。                   (入江相政「宮中侍従物語」

この「雑草という草はない。どんな草にも必ず名前がある。」というお示しは、深く
仏教に通じるのである。

お釈迦様は、12月8日、明けの明星が光ったときにお悟りを開かれ、
「心あるものも無いものも、同時に道を成就している。草も木も大地もことごとく
皆仏となっている。(有情非情同時成仏、草木国土悉皆成仏)」
と説かれた。

お悟りの立場つまり仏様からすれば、心あるものも無いものも、区別がないのである。

まして、草の種類によって分け隔てがなされようか。いや、あり得ない。
ここのところを「日月に私心無し」とも言う。お日様やお月様は、どこでも誰でも分け
隔てなく好き嫌い無く、平等に照らしてくださるということ。

 つまり、考えを改めるべきは私達人間なのである。

 雑草だって、二酸化炭素を酸素にかえて私達の人間の命を支えている。人間の都合や
好みだけで勝手に雑草や雑木とするが、植物自体には本来雑草も雑木もない。
人間の好き嫌いで捉えるだけではならないのだ。


 昭和天皇のお言葉は、文明の繁栄の中で驕りがちになる私達現代人の浅はかな見方を
なるほどそうだなと気づかしてくださる箴言
(しんげん)であり、人生に深い意味をもた
らしてくださる聖句なのである。