禅寺では、命を保つ上での「食」や「調理」は重要な修行の位置を占めます。
食事をいただくときの心構えや、調理のするときの心構えなど、事細かく作法が
定められております。食事の食器(応量器)の使い方は、朝昼晩と違いますので、
新米のころはよく間違えて先輩からそのたびに拳骨を頂戴しました。
曹洞宗の開祖道元禅師は、食事の作法を「赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)に、また
調理するものの心構えを「典座教訓(てんぞうきょうくん)」に示されております。
私は、小学校に勤務しておりますが、先の中教審で「食育」ということがあげられ
ました。つまり、知育・徳育・体育の基礎となる重要な項目にあげられた訳です。
「食育」とは、昨今の日本人の食の乱れが危惧される折、児童生徒の朝食欠食や孤食、
拒食症や痩せ症、過食や肥満などの問題を前にして出てきたことだと思います。
更に、これらは食事そのものの指導ではどうにもならず、心と体の健康という点で
心理的な面も合わせて考えねばならないことであるという中教審の委員もおりました。
知育・徳育・体育に準ずるという「食育」について、それ以来、教育界や各方面では
給食指導や栄養指導、更には各家庭での食事や調理のあり方にまで発展した取り組みが
行われております。
ではここで、次のような話を紹介させていただきます。それは、禅寺で僧侶が食事の
前に唱える「五観の偈(ごかんのげ)」という言葉とその教えで、次のようなものです。
一つには、功の多少を計り、彼の来處を量る。
(ひとつには、こうのたしょうをはかりかのらいしょをはかる)
二つには、己が徳行の全缺と忖って供に応ず。
(ふたつには、おのれがとくぎょうのぜんけつとはかってくにおうず)
三つには、心を防ぎ過を離るることは貪等を宗とす。
(みつには、しんをふせぎとがをはなるることはとんとうをしゅうとす)
四つには、正に良薬を事とするは形枯を療ぜんがためなり。
(よつには、まさにりょうやくをこととするはぎょうこをりょうぜんがためなり)
五つには、成道の為の故に今この食を受く。
(いつつには、じょうどうのためのゆえにいまこのじきをうく)
上分三宝 中分四恩 下及六道 皆同供養 一口為断一切悪 二口為修一切善 三口為度諸衆生 皆共成仏道
この食物がどれだけの苦労や手間を労してここにあるのかをよく考え感謝し、自分が
果たしてこの食を得る資格があるのかを省みて、食事に対する貪りや怒り・愚痴(三毒)
を捨てて好き嫌いなくいただくこと。
そして、これは枯れた体を癒す良薬であり、この食を摂ることによって即ち人間として
正しい道を歩むことを誓います、という意味なのです。食事は正しい人への道のりだと。
例えばここで「食育」と言われたとき、たいていは学校教育の場ですから、やはり給食の
あり方とか栄養指導とか調理などが考え付くのではないでしょうか。また、親の立場として
は料理や家族の食事のあり方などが「食」を通した教育の一環と考えられています。
表面的に目に見える部分についてはすぐに取り組まれるのですが、しかしそれに関わる
底にある部分を見逃さず、例えば自然愛護や環境教育、感謝の心などの道徳的な意義や
心の教育までも並行して培っていかなければならないものだと思います。
ですから、スポーツ選手のためような栄養指導等ばかり教えていては駄目なのです。
(ちなみに、「食育」の定義は、“様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し、
健全な食生活を実践することができる人間を育てる”です。…やはり‘栄養指導’のみのようですね。)
動植物の命をいただいて自分が生かされていることへの謙虚さや感謝、自然との共存する心。
そして、それを得ている自分への反省や、正しい生き方をしているかどうかの問いかけ。
「食」をただ並べるだけ、そしてそれをそれを食うだけ、食べ物があって当たり前、好きなものが
無かったり嫌いなものがあると怒ったり、というような思い上がった心がないだろうか。
五観の偈にあるような人間としての心の有り様が培われていくことで、そこを原点と
して自然に食事のマナーや料理する心が滲み出てくるものです。
なぜマナーがあるのか、なぜ料理が大事なのか。
多くの人は、それらの根底にある心を知らず表向きの目に見えやすい部分のみで終わっ
ているかもしれません。それでは本来の重要な事柄に気付かず、真の教育というものから
離れてしまい、魂の入っていない学習をしただけに終わってしまうおそれがあります。
これは「食育」に限らず教育活動全般に、総合学習であれ国語であれ算数であっても、
夫々に根底には心を養う大事な使命があるものです。
根底に流れている大事なことを教えないままに、子供達もわからないままに学習をして
いることが多いのかもしれません。
だから、子供達から「なぜこんなことしなければならないの?」というような問いかけが
出てくるのではないでしょうか。
子供達にやる気を起こさせないままに、押し付けられた感じばかりが残ったりすること
をしていないか、常々考えながら教育に携わらなければならないと思っております。
平成17年 1月20日