住 職 挨 拶

謹んで新春のご挨拶を申し上げます。

 昔話であるが、小生は男五人、女一人の六人兄弟の二男に生まれ、小学校を卒業すると市内の

春日山林泉寺に預けられた。林泉寺には、大黒様のようにどっしりして毛むくじゃらで腹が出っ張った天涯孤独の近藤全能老師(閑居様と言われた)がおられ、留守番として二人で暮らしていた。

林泉寺では、毎週日曜日の朝五時から、市内から集まってくる人達と参禅した。参禅者は、真冬の雪にもめげず通って来られた。参禅が済んでの朝食はお粥で、割った薪を燃やして炊くお粥の味は格別のものであった。参禅会は大洞参禅会の名称で、住職は名古屋の護国院監院、大本山永平寺顧問の要職にあった大洞良雲老師であった。

私の幼名は「貞雄」であったが、出家して大洞良雲老師の「良」と近藤全能老師の「」を頂いて「良全」と改名した。

大洞老師は、遠い名古屋から、特急など無い頃、蒸気の普通列車に乗り、満員の時などは、通路に置いた皮のトランクに腰掛けて来られた。

風呂も、薪を燃やして沸かした木造の据え風呂で、あるとき、風呂場からなかなか出てこられないので、入り口の戸を開けて見に行くと、自分の手ぬぐいで浴槽に浮いた垢を丹念にすくってから出てこられるところであった。

(おのれ)こそ(おのれ)()()  己をおきて誰に寄る辺ぞ

       よく整えし己こそ  まこと得がたき寄る辺をぞ獲ん

(お釈迦様の金言の法句経 第一六〇より)

 

 小生は、その後東京の親類宅に寄宿し、日本大学法文学部に在学したが、既成の仏教教団を離れ、仏教の現代への復興を唱えて真理運動を起こし、戦後東京神田に神田寺を創立した友松圓諦師(昭和43年逝去)に師事して教えを受けた。

その頃、昭和17年11月、昌伝庵住職の大庵祥堂(おおいおしょうどう)老師が急性肺炎で遷化された。

当時の弟子が、残っていた寺族にいじめられて出て行ってしまったので、林泉寺に世話になっていた小生は、俄かに否応なしに和尚になれと、前林泉寺住職西山法運老師に命令されたのである。

僧侶になるつもりもなく、また何の修行もしていない小生は、東京の曹洞宗宗務庁で試験を受けさせられ、合格して昌伝庵住職に任命されたのである。

19歳のときだから、今年で65年目になる。     (住職  今成 良全)

 

 お寺は、現在では所帯を持ったりして、そこの子供が後を継ぐ世襲制のように思われておりますが、決してそうではありません。

そもそも住職やその家族にとっては、いくらお金をかけようとも土地や建物は私有物ではなく、寺を守りながらの仮住まいの身であります。

「縁あれば住し、縁なければ即ち去る」の覚悟で暮らしております。

そして適材適所に良い僧が配置され、寺を守りながら布教し、仏の教えが世の中に広まり、人々が平和で仲良く住める世の中になることを願っています。   (副住職)

 

 

死んだらどこへ行く?

( 副住職作成の昌伝庵ホームページ「一口法話」 - 平成139月掲載 - から )

 

はじめに「地蔵十王経」からの話。人は死んだら最初の7日目(初七日)に秦広王の前に行く。 ここで最初の審査を受け、三途の川を渡り、あの世への旅を続けることになる。

(三途の川を渡る前に、九死に一生を得てこの世に戻ってきた人がいるとか!?)

なお、三途の川の渡し賃は6文だそうで、棺の中に6文銭を入れる風習はここからきている。

さて、秦広王の次の7日目の裁判官は初江王であり、三七日は宋帝王、四七日は五官王、そして五七日にはかの有名な閻魔大王、六七日は変生王、最後の七七日には泰山王。

このようにして7日目ごとに7人の王(裁判官)により49日間審査を受けることになる。

嘘偽りは通用しない。なぜなら、生前の様子を映す「鏡」や「水晶の玉」等があるからである。

(ところで、何を重点的に審査されるのかというと、生前の「善」と「悪」の行ないである。)

 こうして7人の王から審査を受けた者は、審査結果により修行すべき道を言い渡されて、あの世での道を辿ることになるのである。(十王の残りの3人の王は、百か日・1周忌・3回忌に登場!?

(なお、49日間は「中陰」といって、死者の魂がまだこの世を彷徨っているという。)

今でも、四十九日や百か日、一周忌や三回忌…などの供養をするが、故人が生前なし得なかった「善」を、その審査時に生きている者が追って送ってあげるということで「追善供養」と呼んでいる。

そして、あの世での修行後、またこの世に生まれ変わって生を受け修行を繰り返す。(輪廻(りんね)転生(てんしょう)

  なお、一休さんのモデルである室町時代の禅僧一休宗純は、この世は、「あの世」と「あの世」の一休みということで、「一休」と名のったらしい。(一休の名は、師の華曳宗曇から名付けられた。)

 修証義には、(曹洞宗を開かれた、鎌倉時代の禅僧 道元禅師の著した[正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)]は難解であるので、一般の人にでも分かるようにと明治時代に編纂されたのが、今 法事などで読んでいる「修証義(しゅしょうぎ)」である。)「死んだ時には、ただ一人で黄泉の国に赴かなければならない。国王や大臣だろうが、親しい人や忠実な部下がいても妻子であろうと、財産がいくらたくさんあろうと、何の助けにもならない。」

『ただ一人黄泉に赴くのみなり。己に従い行くは、ただこれ善悪業等のみなり。』(第一章)とある。

 

思うに、地獄や極楽の話をすることで、今生きている人間に対し、自分の生活態度は正しいのかよく見直し、人間の心を持って「常に正しい生き方をせよ」と、戒めているのかもしれません。

この世での善行はどうすればよいのかについては、例えば「見返りを期待しての善行は何にもならない」とか「自分同様に人にも良くしてあげよう」など第四章等に述べられていますが、まずは「現世で授かった環境において一生懸命修行し、その大事な人生を全うすること」が大事です。

途中でその生をあきらめたりせず、人間としての正しい道を修行していかなければなりません。

 

なお、曹洞宗の開祖道元禅師は、因果の道理について「私的な意見として言っているのではない」と前置きしながら、「善を修する者は昇り、悪を修する者は堕ちる。これは少しも間違いないことである。」と言っておられます。もしこういうことがデタラメで嘘っぱちなことならば、今まで数多くの僧侶が、インドから中国そして日本と、仏の教えを命がけで伝えて来たりはしない …とも。

まず死んだあの世のことはともかくとして、荒んでいる現代ならなおのこと、正しい人としての道とは何かを省みていかなければなりません。 (修証義第一章の内容から抜粋してお話しました。)