昌伝庵所蔵の大般若経の話

通常みられる大般若経は版木で印刷されたものが多いのですが、昌伝庵の大般若経は
江戸時代後期に、25世の住職が一人で書かれたものです。 版木での大般若経製作も
それはそれはたいへん困難な作業ですが、一人で600巻も書くというのもまた大変な事で
あります。大正時代の大火で焼損しているとは言え、やはりこれは寺の宝であり、修復し
大般若会をする事も昌伝庵の使命であると思います。この経本のあらましをご覧ください。


        当寺二十五世 一山東傳大和尚 直筆

                「大般若経」六百巻

 当寺二十五世一山東傳(いっさんとうでん)大和尚(安政六年に六十四歳で示寂)は、江戸時代後期に越後の国に生まれ、昌伝庵で三十二年間住職しておられましたが、その間この「大般若経」六百巻を書写されました。

通常、どこでも見られる大般若経は木版印刷の大量印刷版ですが、この大般若経は一山東傳大和尚がたった一人でその生涯をかけて書写された直筆であります。

経本の一巻一巻ごとに個々の施主の名前が記されています。

当時東町(東横町)に在住されていた檀家の沼家(現在 通町在住)宅等の檀家さん宅において書写されたこともあったようです。

第一巻には「嘉永元戌申年七月二日申之下刻書始 同十八日申之中刻書寫 奕葉山昌伝庵現住東傳叟」と記されています。つまり、第一巻目は一八四八年七月二日午後五時から書き始め、十六日後の十八日午後四時に書き終わったということです。

そして最後の第六百巻目は、「書始安政五戌午年九月六日寅下刻 同十一日午上刻書寫終 奕葉山昌伝庵現住東傳布納」と記されており、一八五八年九月六日午前五時から書き始め、五日後の十一日午前十一時に書き終わったということであります。

このことから、第一巻目から最後の六百巻目を完遂するまでは、実に十年と二ヶ月を費やして書写されたわけです。

老師は完成の七ヶ月後、安政六年四月六日に亡くなられました。

 

ただ残念なことに、経本の一部が大火により焼損しています。

大正八年の米沢大火ではこの寺も被災に遭い、近隣の檀家さん方等の努力で、寺の物が運び出されました。県の文化財になっている大日如来像も、当時の大日堂前にあった池の中に仏像を沈め難を逃れたということです。

しかし、そのほとんどは消失してしまいました。

この「大般若経」六百巻もおそらくは必死で運び出されたものと思われます。全十二箱中の一箱が焦げ、経本二十巻が残念なことに焼損してしまっております。

いつかはこの経本を修復し収納箱も新調し、行く行くは大般若経を転読する大般若会を修し、檀家の皆様を始め国土や人々の安寧を御祈祷したいと考えております。 

今後この修復費用も捻出していかなければなりません。そのためにも、何卒檀家の皆様のご喜捨をお願いする次第です。

 この「大般若経」は、西遊記でおなじみの玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)法師が、中国の長安から天竺(インド)まで、かん難辛苦の旅を経て、持ち帰えられたお経であります。

また更に玄奘らによって編纂されたものが「摩訶般若心経」いわゆる「般若心経」です。

どうか、檀家の皆様をはじめ世界中の人々が、早く正しい仏の智慧を得て、災いからも逃れ、正しい道を進み、平和で安穏な日々を送ることができますよう心からご祈念したいと思います。

   平成二十一年十二月

昌傳庵 三十三世 住職  今成 幸裕 合掌