アストルピアソラ バイオグラフィー

1921 3月21日、アルゼンチンのマル・デル・プラタにイタリア移民系3世として生まれる。
   父ビゼンテ・アストラ、母アスンテ・マネティ。本名は、アストル・パンタレオン・ピアソラ。
1925 両親とともにアメリカへ移住。ジャズが好きでハーモニカを吹いていた。    好きな曲は「ラプスディー・イン・ブルー」 父が聴いていたタンゴは嫌いだった。
1929 8歳の誕生日に運命のバンドネオンを贈られるが、初めのうちは興味を示さず。
1930 半年でアルゼンチンに帰国、家族パーティーで初披露。    ニューヨークに戻り、アンディ・ダキーラにバンドネオンを習う。
1931 11月、ラジオ局でバンドネオンを録音。珍しさも手伝い、ステージなどで演奏をすることとなる。
1932 処女作「42番地に向けて着実に」を作曲。
1933 近所に住むピアニストベラ・ウィルダの弾くバッハに感動し、ピアノを習う。
1934 タンゴのスター歌手カルロス・ガルデルと親しくなり、翌年撮影の映画想いの届く日に端役で出演。
1935 ダキーラ楽団の録音に参加
1936 アルゼンチンに帰国
1937 父の開いたレストランでバンドネオン・ハーモニカを演奏。六人のリズムのエースたちに参加
1938 エルビーノ・バルダーロ楽団の演奏を聴き感動。クアルテート・アスール結成
1939 ブエノスアイレスに上京。アニバル・トロイロ楽団に参加
1941 アルベルト・ヒナステーラに作曲、音楽理論を学ぶ。
1942 10月、デデ・ウォルフと結婚。
1943 5月、トロイロ楽団で編曲を担当した「インスピラシオン」を録音。7月長女ナディア誕生。    この年初めてのクラシック曲「弦楽とハープのための組曲」を発表。
1944 7月ごろ、トロイロ楽団脱退。9月歌手フェオレンティーノ伴奏楽団の編曲指揮者に就任。
1945 2月、長男ダニエル誕生。5月からフェオレンティーノ=ピアソラ楽団としてオデオンに録音。    11月、ピアソラ初の本格タンゴ「長い夜」をオスバルド・フレセド楽団が録音。
1946 5月、フェオレンティーノと訣別。この年から自らの楽団を率いて活動を始める。
1949 6月、楽団を解散。以後5年間は裏方の仕事。この年に初めて映画音楽を担当。
1950 最初の傑作「パラ・ルシルセ」を発表。トロイロ楽団に編曲を提供。    女性歌手、マリア・デ・ラ・フレンデの伴奏指揮、および自己の楽団名義でも録音を残す。
1951 「プレパレンセ」を発表。アフロ系リズム「タングアンド」を発表。    クラシック音楽(3つの交響的楽章)「ブエノスアイレス」を発表。
1952 「勝利」を発表。スプレンディ放送局の専属楽団編曲指揮者に就任。
1953 トロイロ楽団の天才コントラバス奏者キチョ・ディアスに捧げた    「コントラバヘアンド」をトロイロと合作。    トロイロ楽団の舞台モローチャの中庭の編曲を担当。    室内管弦楽のための「シンフォニエッタ」発表。
1954 「ロ・ケ・ベンドラ」を発表。8月よりフランス政府の奨学金を得てパリに留学。    ナディア・ブーランジェに師事。クラシック作曲家を目指したピアソラだったが、    ブーランジェは、タンゴに本分がありと示唆。以後、ピアソラの方向性を決定付けるものとなる。
1955 パリで弦楽オーケストラを率い、自作曲中心の録音を敢行。7月に帰国。    パリで触れたジェリー・マリガンの演奏に刺激され、    タンゴ界で初めてエレキ・ギターを導入。即興演奏まで取り入れたブエノスアイレス8重奏団を結成。    進歩的な音楽家や一部のファンの支持は得られたものの、保守的なタンゴ・ファンからの猛攻撃を    喰らう。パリ録音の延長上にある 弦楽オーケストラも結成。ヴァイオリンにエルビーノ・バルダーロ    を迎える。
1956 ブエノスアイレス8重奏団および弦楽オーケストラで録音を開始するが、ステージで演奏する機会は ほとんどない。
1957 二つの編成の到達点として、それぞれ締めくくりとなるアルバムを録音。
1958 2月、新天地を求め家族でニューヨークに移住。ルーレット・レコードと契約、    歌手の伴奏などを始める。
1959 ジャズ・タンゴと称してバーカッション、ヴァイブなどを加えた編成でアルバム 『テイク・ミー・ダンシング!』を制作するが、後に自ら“失敗作”と断定。 10月、ファン・カルロス・コーペス舞蹄団とプエルト・リコ巡業中に父ビセンテ    (愛称ノニーノ)の死を知らされる。ニューヨークに戻り、父に捧げた    「アデイオス・ノニーノ」を    作曲、これが終生の代表曲となる。
1960 7月、帰国しスプレンデイ放送局専属楽団の編曲指揮者に就任。この楽団で「アデイオス・ノニーノ」    初演。バンドネオン、ヴァイオリン、ピアノ、コントラバス、エレキ・ギターからなる5重奏団を結成。    以後のピアソラの最も標準的なグループ編成となる。初録音は映画音楽。
1961 RCAと契約、5重奏団でタンゴ名曲中心のアルバムと「アデイオス・ノニーノ」を含む自作曲中心の    アルバム2枚を発表、レコード会社の思惑に反して後者の方が好セールスを記録。
1962 新ヴァイオリン奏者としてアントニオ・アグリが参加、5重奏団のサウンド確立に大きく貢献。    5重奏団でライヴ・ハウスを中心とした演奏活動を展開。
1963 フルート、バーカッションなどを加えた新8奏団でも活動。
1964 自らの20年史を回顧するアルバムを制作。
1965 5月、アルゼンチンからの文化使節に加わリニューヨーク公演を成功させ、帰国後に傑作アルバム    『ニューヨークのアストル・ピアソラ』を録音。アルゼンチンを代表する文学者    ホルヘ・ルイス・ボルヘスの作品に曲を付けた意欲作『エル・タンゴ』発表。    舞台音楽の中の一曲として「ブエノスアイレスの夏」作曲。その直後から約2年間極度のスランプ    に陥る。この頃、デデ夫人と離婚。
1967 12月、詩人/評論家オラシオ・フェレールが持参した草稿をもとに音楽劇    『ブエノスアイレスのマリア』を創作開始。
1968 フェレール(小悪魔役)、女性歌手アメリータ・パルタール(マリア役)などのキャストで    『ブエノスアイレスのマリア』上演。レコードも制作。商業的には成功しなかったものの    充実した内容で、次なるステップヘの大きな足掛かりとなる。
1969 ピアノ巧者ダンテ・アミカレリを得て5重奏団で「アデイオス・ノニーノ」を再録音。    ピアソラ曲、フェレール詞、パルタール歌による「ロコヘのバラード」がコンクールで第2位を獲得し    大ヒットを記録。初めてピアソラ作品が大衆のものとなった。この頃バルタールと結婚。
1970 5月、レジーナ劇場での5重奏団のリサイタルをライヴ録音。《ブエノスアイレスの四季》全曲 を含む充実の演奏をピアソラの代表作のひとつに数えられる。
1971 訪問先のパリでフェレールとの共作でドイツの丁∨局のためにオラトリオ《若き民衆》作曲。    年末、5重奏団に弦やバーカツションを加えた9重奏団≪コンフント・ヌエベ》 を結成、翌年    にかけて2校のアルバムを出したが、ピアソラ芸術の頂点とも言うべき鉄壁のアンサンブルが    聴かれた。
1973 再び5重奏団で活動するが、10月に心臓発作で倒れしばし休養。
1974 3月、心機一転イタリアに活動の拠点を移す。5月、イタリアのスタジオ・ミュージシャンを    バックにジャズ・ロック寄りのアルバム『リベルタンゴ』録音。9月から10月にかけてジャズの    バリトン・サックス奏者ジェリー・マリガンと共演アルバム『サミット』録音。    年末にはブエノスアイレスでコンサート。
1975 死去した師卜ロイロに捧げた《トロイロ組曲》、映画『サンチャゴに雨が降る』のサントラ などを録音、アルゼンチンのジャズ系ミュージシャンを集めたグループで各国ツアー開始。
1976 3人目の妻となるラウラ・エスカラーダと出会い、パリに住まいを移す。 シャンソンのジョルジュ・ムスタキのアルバムに参加。
1977 4月、パリのオランピア劇場に出演。12月、78年のワールドカップ・アルゼンチン大会 向けのアルバムを録音。    ジャズ=ロック編成の終焉。
1978 3月、一旦帰国し若手メンバーと5重奉団を再結成、アコースティックヘの回帰を表明。 5月からライヴ活動開始。以後毎年各国ツアーを行う。
1979 新生5重奏団で最初のアルバム制作。《バンドネオン協春曲》初演。
1980 《プンタ・デル・エステ組曲》発表。ギターのための《5つの小品》作曲。
1981 オラシオ・フェレールと再び共作活動を行う。
1982 レジーナ劇場でベテラン・タンゴ歌手ロベルト・ゴジェネチェと5重奏団との共演リサイタル    敢行。フランスでモノ・オペラ『情痴犯罪』作曲(作詞ピエール・フイリップ、歌手ジャン・    ギドーニ)。チェロの巨匠ロトスロポーヴィチのために 《ル・グラン・タンゴ》作曲。11月、    5重奏団で初来日。
1983 ブエノスアイレスのクラシックの殿堂コロン劇場に堂々出演。アサド兄弟のために《タンゴ組    曲》作曲。10月のウィーンでのコンサートを翌年『ライヴ・イン・ウィーン』として発売。 1984 ミルヴァとのコンサート・シリーズ『エル・タンゴ』スタート。2度目の来日公演。映画『タ    ンゴ−ガルデルの亡命』のための録音。
1985 3月、リエージュ国際ギター・フエスティヴァルでカチョ・ティラオのギター、レオ・ブロー    ウェルの指揮を得てバンドネオンとギターのための協奏曲《リェージュに捧ぐ》初演。フルー    トとギターのための《タンゴの歴史》発表。
1986 5月、ニューヨークで傑作アルバム『タンゴ・ゼロ・アワー』録音。7月、ゲイリー・パート    ンとのジョイントでモントルー・ジャスさ・フェスティバル出演。その後、来日。
   コメディ・フランセーズのためにシェークスピア劇 『真夏の夜の夢』の音楽を作曲。
1987 ニューヨークで舞台『タンゴ・アパシオナード』のための音楽を作曲。それをモチーフにして    『ラフ・ダンサー・アンド・ザ・シクリカル・ナイト』制作。5重奉団でセントラル・パーク公演。    ラロ・シフリン指揮で《バンドネオン協奏曲》他を録音。
1988 5月、ニューヨークでアルバム『ラ・カモーラ』録音、6月にはミルヴァと共に最後の来日公演。    帰国後、5重奏団を解放、心臓手術を受ける。
1989 5重奏にバンドネオンを加え、バイオリンをチェロに置き換えた6重奏を結成し、各国のツアーに出発。    6月、ブエノスアイレスで生涯最期のコンサート。同月、BBC放送の特別番組を収録。    オランダでオズバルト・プグリエーゼ楽団と歴史的共演をする。    その後、メンバーの脱退により、11月に解散。
1990 4月、クロノス・カルテットと「ファイブ・タンゴ・センセションズ」を録音。    7月、アテネのマノス・ハジダギスとの共演で「バンドネオン協奏曲」を録音。    これが最期のコンサートとなる。8月4日、パリのアパルトにて脳溢血により倒れる。    10日後には特別機にてブエノスアイレスに移送。以後これより23ヶ月の闘病生活に入る。
1992 7月4日、ブエノスアイレスの病院で71歳にて死去。