尾浦城

尾浦城址の碑尾浦城主武藤家遺蹟由来の碑

(写真左:尾浦城址の碑)(写真右:尾浦城主武藤家遺蹟由来の碑)

羽州太守武藤氏の碑

(写真:羽州太守武藤氏の碑)

尾浦城主武藤家遺蹟塔

(写真:尾浦城主武藤家遺蹟塔)

鶴岡市大山の尾浦城(大浦城)は天文年間に武藤(大宝寺)氏によって築かれたという。武藤氏は大宝寺城(現、鶴岡城)を中心に庄内地方に勢力を伸ばしたが、最上川以北に勢力を持つ砂越氏に攻撃に悩まされて尾浦城に本拠を移した。平城の大宝寺城に比べ尾浦城は山上の要害にあり、西に連なる山を越え日本海に面する加茂港に出ることもできた。その後、武藤氏は越後の上杉謙信に従属して上杉家の権威も借り庄内に勢力を伸ばした。特に幼少期に謙信の人質だった武藤義氏はその強権的な支配から「悪屋形」と呼ばれ、家臣や領民は苦しめられたという。だが庄内に勢力を伸ばそうとする山形城主最上義光の策謀によって最上川以北の砂越氏、来次氏が挙兵。義氏は家臣前森蔵人を差し向けるが逆に義光に内通した前森の奇襲を受けて自刃した(1583年)。その後、前森蔵人は酒田の東禅寺城主となり東禅寺筑前守義長を称した。武藤家は義氏の弟で丸岡城主、藤島城主、羽黒山別当の丸岡兵庫が継ぎ、武藤義興を名乗った。義興は越後の大名上杉景勝の家臣本荘繁長の子を養子として武藤義勝を名乗らせ上杉の力を背景に勢力回復を図った。しかしまたも東禅寺筑前守の内通により最上義光が庄内に侵攻。義興は敗れて自刃した(1587年)。義勝は一旦小国城(温海町)に退却し、実父本荘繁長の援軍を得て最上軍に逆襲。翌年、十五里ヶ原の戦いで最上軍を破って仇敵東禅寺筑前守を討ち取った。こうして武藤氏は再興され、庄内は事実上、上杉家臣本荘繁長が支配した。ところが豊臣秀吉の支配が定まった1590年庄内で検地反対の一揆が発生し、本荘繁長と武藤義勝は一揆を扇動した嫌疑で所領を没収され、庄内は上杉景勝による支配となる。1598年上杉家の会津移封の際も庄内地方は上杉家に残り、尾浦城には下吉忠が入った。1600年関ヶ原の戦いに伴って勃発した慶長出羽合戦で直江兼続による最上義光攻めの別働隊として下吉忠は庄内から六十里越を経て谷地城を攻略したが、関ヶ原で西軍が敗れたとの知らせが届くと直江兼続率いる上杉軍本隊は撤退した。ところがこの知らせが下吉忠に届かず孤立したため下は最上義光に降伏し、そのまま庄内攻めの先導を務めて尾浦城主に返り咲く。最上統治時代の1603年に尾浦城は大山城と改名された。同時に酒田の東禅寺城が亀ヶ崎城、大宝寺城が鶴岡城と改名している。1603年最上義光の嫡男義康が丸岡を通った際、下の配下土肥半左衛門、原八右衛門に襲撃されて従者共々殺害された。この時最上義光は徳川家に気に入られている次男家親に跡を継がせるため義康を廃嫡して高野山へ向かわせたところだった。このため父義光が下に殺させたとも言われるが、里見民部一族の陰謀だったとも、廃嫡の事実自体が無かったとも言われ、真相は未だ謎となっている。1614年、最上義光が没し、次男家親が跡を継ぐが、一栗兵部が鶴岡城内で謀反を起こし、下吉忠は志村光清共々一栗兵部に殺害された。その一栗も新関因幡に討伐され、裏で一栗兵部を動かしていた義光の三男清水義親は豊臣方に内通していたとされ、兄家親に清水城を攻められて滅亡した。下吉忠に預けられていた里見一族も家親によって切腹させられた。こうして家親にとって目障りな存在は消えていったが、1617年家親は急死した。家親の子義俊が最上家を継ぐが、楯岡光直など有力家臣は義光の四男義忠を当主に推した。しかし松根光広は家親急死は楯岡光直による毒殺と幕府に訴え、最上家臣団の争いは収拾がつかなくなった。1622年ついに幕府は最上家を改易処分にした。大山城は最上家改易とともに廃城になったという。現在城址は大山公園として整備されている。